2010年10月10日

祈り、受容、超作は、解脱への道。

リーディングNo.1510


質問  
受容、受け入れること、許容、許すことの本来の意味。そして、そのことを日常生活の中で、どのように行っていったらよいのか、お教えください。 

ソース  
教えの基本は、業、輪廻、解脱、この三つです。これが仏教を含めた、インドの思想や宗教の、共通して根幹を成すものです。

すなわち、人間は誰でもカルマ(業)によって輪廻転生し、カルマを果たすために生まれ変わって来ること。そのカルマを果たすことで、解脱を遂げ、涅槃の境地に至ること、このことを説いています。

仏教の特色と役目は、インドに共通して見られるこの業─輪廻─解脱を縁起と空の法則を取り入れたことによって、心の自由を得させ、真の解脱へと導く、すなわち成仏することを実現させたことです。

カルマによって輪廻転生するのが、人間の迷いの実態です、実状です。そこから苦しみや悲しみがもたらされます。そのような厳しい実態に対して、どのように対処し、最終的には解脱の境地へと向かわしむるか、その方法として三つほど挙げられます。一つ目は祈りです。二つ目は許しです。三つ目は奉仕です。

なぜ、祈りによってカルマが解消し、解脱へと向かえるのか。それは、どんな日常的なことであっても、一番の元は、神仏によるからです。

祈ることは神との交流です。神との関わりで目の前の課題に取り組むことによって、お力とお導きが得られ、問題の解決が図られ、成長を遂げながら、カルマを脱する方向に向かうからです。そのため何と言っても、カルマを果たし、カルマから脱却するには、祈りが基本です。

二つ目は許しです。なぜ許しなのでしょうか。許すということは、それを分析すると、認めて受け入れることです。許すというのは、実際どのようなことかというと、事態を認めること、認めた後それを受け入れること、これを許しと言います。

多くの人たちがカルマを果たせず滞らせ、事態を解決できないままで苦しんでいるのは、出来事や状況を否定しているからです。否定した上で、それを拒否しているから解けないのです。

否定しているつもりでなくても、「どうして」という疑問や納得できない思いがあると、結局のところ状況や出来事を否定していることなのです。否定して、それらを拒否している限りは、物事は解決せず、カルマも果たされません。

せっかく神さまがカルマを果たさせてあげようというので、因果の理に従って出来事を生ぜしめ状況を設定して下さっているのに、当人が悟らず真実に昏いために認めたがりません。道理と真相を悟れません。そのため、滞ってしまって、解けるものも解けないままにしてしまっているのです。

教えを学び、ものの道理や因果の法則を理解することによって、なるほどと思え、自業自得にも気づき、事態を否定せず肯定できるようになります。認められるようになるということです。さらに、拒否せず受け入れられるようになります。

実は、認めて受け入れるということ、つまり受容するということが、反省ができたことで成長が起きていることなのです。多くの人たちが成長ということを言いますが、成長ということについて見ると、自分の器が大きくなることなのです。自分が高くなるということよりも、大きくなることです。小さな利己的エゴを脱するということです。

カルマの正体はエゴと無知と欲です。自己中心的で小さい、そこからすべてのカルマが生み出されます。エゴが悪なのです。

エゴの対極が神です。人間対神の関係です。人間は利己的であり、神は利他的です。人間は小さく、神は大きいのです。正反対です。自己中心的で小さい不完全な人間のあり方が、すべてのカルマと苦しみの元です。それが周りに不調和をもたらし、輪廻転生を引き起こしています。

なぜ、神仏に祈って神仏との交流で、カルマが解けていき、現実が好転するかというと、カルマの元である自己中心性の正反対に位置する神と仏の純粋で浄らかな利他性、そして大きさがバランス化させ、そのエネルギーによってその人の成長を促進し、心を清めることになるからです。

大乗仏教の六波羅蜜もすべて、利己性と狭さを脱却させ、心を開き利他的にし、大きくさせることにあります。

この、人間から神へと向かうことが成長なのです。成長するというのは、要するに利他的になり、自分が大きくなることです。他を理解し、配慮し、受容できるようになることです。

事態を正しく理解し、肯定し、受容する。そして、精神的にも物理的にも体験し、そこで浄化が起き、カルマが消費され、解けていきます。一通り、様々な症状や現象を伴って通り抜けることで初めて、終えられ、そこから脱却し、好転するのは病気の辿る経過と共通しています。

カルマを果たす二つ目の方法、あるいはポイントが許しだということです。

ここで、許すという場合、相手の人を許すということに限られません。一般には、許すというと、誰かを許す、特に悪いことをした人を許すという言い方がイメージされます。それもありますが、ここで述べられている許しは、もっと広範囲で本質に関わる許しのことです。それを受容と言います。

カルマは受容することによってしか解けないのです。受容し、精神的にも物理的にも一通り体験し、味わい、身に受けてこそ、収まるものです。なぜなら自業自得ですから、起きて来る事は、必然必要で意味があり、認めて受け入れるべきなのです。それで初めて解けていきます。相手の人や状況や出来事を理解し受容し始めた時、自分の中に成長が起きているのです。周りとの対立がなくなり、和解し、包み込み始めています。そこで解消していきます。

なぜ受容しなければならないのか。自業自得で起きてきていて、自分に原因があるから受容しなければならないのです。自分が許されるために相手を許さなければならないからです。成長しないとカルマは解けないから、成長するために受容しなければならないのです。

受容している姿とは、自分が大きくなりつつあることです。これまでは受け入れられないものが、受け入れられるだけ大きくなってくる。つまり成長が起きつつあることです。内的に成長することで、カルマが果たされ、事態が好転していきます。

許すということは、誰かを許すということで一般に言われますが、それに限られず状況を許す、起きてきている出来事を許す、事実を許す。反省しつつ自分も許す。そのような広範囲の意味で許すと言ったのです。存在そのものを許す、認めることは、尊重、信頼、共存、反省を表しています。

誰かがまずいことをしているけれども、「まぁ許してやろう、今回は免除してやろう」、そのような部分的で表面的なことではないのです。それは、許容というのです。受容はもっと本質に関わり、そして広範囲に渡ることです。しかも、神を意識して行われるものです。受容は、相手を支え、癒します。何でも、育て導きこと、その観点で見て応じていくのです。

その意味では、厳密にいうと、許しによってカルマが解けるというよりも、受容によってカルマが解けるのです。受容すなわち愛と成長です。受容できない人は、ものの道理がまだわかっていないからです。また成長していないからです。人間として小さいし、相手を思いやっていないのです。

ものがわかるためには、教えを学ぶことです。成長が起きるためには、祈って神との関わりで引き上げていただくことです。祈りながら教えを学び、自分にわからしめ教えを応用することによって、カルマが果たされ、問題が解決し、事態が好転し、そのことを乗り越えて前に進んで行けるのです。

多くの人たちがカルマを果たせないのは、神さまのせいではなく、誰かのせいでもないのです。むしろ、神さまはカルマを果たさせてあげようと配慮して、状況と出来事を提示して下さります。

それを自分で滞らせているのは、ものの道理に昏いのと、成長しようとしていないことによります。ものの道理をわかる、その教えとはなんでしょう。カルマの法則と神との関係です。そのものの道理が空です。縁起の理法です。繋がりや関わりによって、物事が初めてある。その事です。その空や縁起をONEと言っているのです。それゆえ、ONEを悟ることによって、出来事や事態が理解でき納得できます。

そうすると「なるほど」と思うので、「まずいけど許してやろう」と言うのではなくて、当然の理だから、これは受容して見守ろうということになるのです。

また相手に非があるばかりでなく、自分に非があるからこそ自分も関わってきていることがわかるので、相手をただ許してしまうということでなく、自己責任も自覚され、相手のことをも理解して考慮し受け入れるということです。

それは、間違いをただ認めてしまうことではありません。神の下、互いの成長を信じて見守り、次のために期待しようということです。間違ったら許し合うこと。しかし、それは間違ってよいということではなく、その事からレッスンを学んで謝罪したり、責任を取ったり償ったりすることを前提で許すということです。

間違いを認めず、現実にきちんと対処し、謝罪し、改善することも、時には必要です。しかし、その場合も、理解し、受け止めてからです。一方、間違いを認めてあげて、反省しつつ次に繋げることも大切です。

このように、許すことと受容することとの違いは、許すというのは、非合理であり、誤魔化しがあります。あるいは甘さもあります。一方、受容というのは、結果的に許しも含まれるものの、実はもっと理解して相手の成長を支えサポートする働きのことです。支え育む愛の力です。また良い意味で保つ力です。それが受容です。

受容は、神さまの為さることを認識し、神さまの為さることに味方して自分も動くことです。神さまのお働きを理解し、加担していくことです。それが受容です。なぜなら、起きてくる事も状況も神からやってくるからです。

もちろん直接的には、起きてくる事は自業自得であり、人間の不完全さや癖によるエゴ的な産物です。その意味では許してなりません。しかし、受容はしましょう。それを前提に次を考え、対応していくのです。

さて、カルマを果たす三つ目のポイントは奉仕です。奉仕活動です。さらに言うならば、狭い意味での奉仕に限定されず、あらゆる事、特に自分がその時するべき事を奉仕の精神でさせていただくということです。

これによって、エゴから利他性へと向かいます。利他性は愛であり、慈悲です。神の性質です。それゆえ、自分を忘れて他者のためや全体のために、するべき事を無心に果たすことで、自分が浄化され、利他性へと性質が変わってきます。

つまり、成長を遂げます。周りのためにもなります。成長するというのは、自分が大きくなること、それと利己性から利他性へと向かうこと、この二つがポイントです。無我夢中で奉仕の精神でするべきことに励んでいると、周りを支える行いになると共に、自分も成長しますから、カルマが解消して、現実も好転し、困難を乗り越えていけるようになるのです。

このような奉仕のあり方、すなわち理想的な奉仕、すべてを奉仕で行うことを超作と言います。したがって、カルマを果たして解脱へと向かうポイントは、祈り、許し、奉仕というよりも、祈り、受容、超作、この三つと言ったほうが正確です。

つまり単に、奉仕活動だけではなく、むしろ今為すべき務め、すなわち使命を超作で為すこと。それによって解脱が生じてきます。それは空のあり方で為すこととも言えます。なぜなら空とはONEだからです。行うことと自分が一つになっている、あるいは相手と自分が一つとなって行われている。そこには対立やギャップがない。

それは本当の愛であり、縁起と空、すなわち真の自由がそこにはあるので、適宜自在、臨機応変、自由無碍になされています。自分本位ではなく、相手や状況を正しく理解し、適切に応じ関わっているので、確かに役立っています。

神さまや仏さまのお働きは、自由無碍で適切です。利他的で純粋です。ピッタリです。それが八正道であり中道です。ONE道です。無碍の一道と親鸞は表現しています。

人間もまた、神さまや仏さまに見習い、ピッタリに行うことで、次第に神さまと一致し、自分が浄化され、カルマが解けていき、現実が好転していきます。現実はすべて神さまの現れです。表面的な現象としては、不完全な人間たちの創り出しているものですが、その根底で神さまが働かれておいでです。だから受容するのです。

もし人間が不完全で創り出しているだけのものならば、受容しては不適切です。認めてはいけません。しかし、単に人間たちのしでかしている間違いや不適切さだけでなく、根底で神さまがそれらをあぶり出しつつ、カルマを解こうという愛の働きかけとして現実が動いているとするならば、神さまの御意向を受けて受容するのが、神さまの御心に沿う生き方です。

たとえ不完全でも、それを現し出すことによって解かせようという、神さまの御本意があるとするならば、人間側としても起きてくる事を不完全でも受容しましょうということです。

ただ、認めて間違いや罪や不正を、そのまま許してしまうこととの違いは、受容の場合、神さまの摂理に従っていることと、相手を思いやって信じていること、つまり相手の成長や将来を信じている点で異なっています。

また、相手が罪を償い、自分を正し、そしてこれから良くなっていくことを前提に認めていることが、単なる許しとの違いです。起きてくる事自体が、罪の償いをも含んでいる場合が多いのです。

そして、相手側の間違いだけでなく、自分側の責任や間違いもあって、相手のものも自分が被るということで、自分もカルマを果たしつつある姿であるならば、そのカルマを解消するプロセスを理解し、受容し、一通り体験して通り抜けて行くことが求められています。だから受容するのです。受容するというのは、認めてしまうというよりも、素直に受けて、一つひとつを体感し、共に通過して行くことに他なりません。

認めるとか、認めないとか、気に入るとか、イヤだとか、そういう次元の事ではなく、むしろ神の摂理を理解し、それに自分の身をさらし、体験しながら責任を取っていく姿です。それが受容です。受容して、誠実に目の前の事に対応していくのが、カルマと責任を果たしつつある形です。

教えの中でも、とにかく出来事や状況を受容することが強調されます。教えを学んでおらず、ものの道理に昏い人たちは、感情で動き、成長しようという意志がなく、相手のせいにしたり、偶然だと見なすので、現実を認めたがりません。

そうするとカルマは解けにくいのです。滞ってなかなか解決しません。受容するというのは、自分の問題や非を認めて、現実を受け入れ、それに対応して責任を果たしていくことです。単に間違いをそのまま見て見ぬふりをしたり、素通りさせることとは異なり、しっかり受け止めて、自分にも非があったことを潔く認め、学びと修正の機会とし、責任を取っていく姿です。誠実さが受容です。

それゆえ、カルマを果たし、現実の問題を解決させるのは、受け入れるという事がキーワードです。ほとんどの人は、それができていないで、困ったままで苦しみが続いているのです。受け入れないままで努力しても難しいのです。受け入れて頑張ることです。

一番の元では、この世も神の世界である以上、状況や出来事が神からのものであると知って、受け入れるのです。それで体験できて、果たされていき、責任も取れます。間違いを通して完全さがやってきます。それも成長のプロセスです。いきなり完全さはやって来にくいのがこの世です。だから、成長を信じて見守り、次に期待するということです。そのプロセスで各自責任を取って行きます。間違いや不完全さのままでよいという意味ではありません。経緯や事情を理解、考慮してまずは認め罪を償い、成長して完全になっていくことで、責任を取っていくことが受容を通して叶います。

しかもそれは、根源のところとの関わり、つまり神仏との関わりで祈りつつ、お力添えやお導きを頂いてこそ、成し遂げられていくことです。だから祈りながら超作するのです。そして心がけとしては、起きてくる事は、神からのものであると悟って、認めて受け入れ、つまり受容して、誠実に対応して責任を取っていくのです。

そうすれば、過ちや不完全さがあっても、単に認めてしまうということでなく、それ以上に積極的に責任を取っていくことになっていくのです。

実は、受容して体験しつつあることが、罪を償いつつあるのです。すでにカルマを遂げつつある姿です。拒否しているということは、自分の罪を認めていない姿です。

まず、素直に認め、現実に対して責任を取っていくこと。その事を他の人も自分自身もしていくこと、それが受容です。受容というと、単に消極的、受け身的に聞こえますし、自由意志を使っていないように見えますが、実は、受容というのは最もパワフルで、勇気と力があり、真の積極さがあるのです。それこそ周りを支える神の愛の働きです。

ちょうど空が何にも無いとかヘラヘラしている、諦めムードではないようにです。もし、空をそのように消極的、受け身的に、あるいは虚しいあり方だと空を捉えているとしたならば、生悟りです。真に悟っていません。空は積極的であり、パワフルです。

真の実在が空です。神さまも仏さまも、空というあり方で存在しているのです。それは虚しいという意味ではなく、真の実在です。それが空です。

それゆえ有るのでも無いのでもない、それを中国では無とも言います。しかし、神さまや仏さまが居られないという意味ではなく、この世的なあり方では、ないということです。だから本当に有ることができる。それが神の実在の実態です。

人間は、本当には無いものを有ると捉えて、執着して苦しんでいます。自分の苦楽に関わらず、どんな事でも平らな心で認めて、受け入れるのです。教えを悟っていない凡夫の特徴は、自分の視点や好みや利害に立って、気に入るものを認めて、受け入れて、喜ぶ、感謝する。自分が気に入らないものは、否定して、拒否している。そして喜ばない。自分が期待した結果が出ればはしゃぐ、気に入らない結果が出ると落胆したり怒る。結果を認めない拒否する。これが凡夫のあり方です。

受容、すなわち超作とは、自分が気に入る気に入らないを越えることです。すべてが神からのものであり、最善の結果を下さったと見て、気に入る気に入らないを越えて、すべてを平らな心でどちらも受容し、それで初めて体験して、責任を果たし、成長を遂げてカルマが解けていくのです。

許すというのは、表面的、部分的であることがわかりました。受容はもっと本質的で、一貫してすべてに応用する、責任を取る、積極的姿であることがわかりました。

無視するというのは誤魔化しであり、逃げです。責任を取っていない姿です。

諦めるというのは、一般に投げ捨てることを意味しています。しかし、元の意味は、明らかに見る、真実を見据えることが諦めるです。明らかに見るの意味です。

多くの人たち、特に凡夫、普通の人たちは、諦めてはいけないことを諦めてしまっています。一方、諦めるべきを諦めずに執着して未練がましくジタバタするのです。教えに出会った人たち、菩薩を心がける、六波羅蜜に生きる人たちは、ものの道理を悟り諦めるべきを諦め、諦めてはいけないことは、諦めずに行い、責任を取っていく姿です。諦めるほうがよいものに執着して諦め切れず、諦めてはいけないことをあっさり放棄する。それでおかしくなってくるのです。何でも諦めればよいということではありません。きちんと責任を取っていきましょう。

それを見極めて自分をコントロールし、真実に沿って行ったり控えたり、それができるのが、真の自由すなわち空です。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

<了>