2013年8月9日

頭と心の思いが、体にまで浸透してくると、体もついてきてくれます。

2008.7.2 パーソナル・リーディング No.10625

【質問1】4月2日のリーディング(№10458)を繰返し聴かせていただきました。ありがとうございます。何度も何度も聴かせていただく中で、徐々に心が柔らかく解され素直に前向きになっていき、相当な意気地なしの私も、ようやく重い腰を上げる気になり、地元でのイベントを1~2年のうちには初回を立ち上げていこうと、心が定まりました。お蔭様です。とはいえ、去年の友人との関わりでは、大分カルミックな行為が目立ち、お諭しいただきました。子供の頃の嫌な記憶も未だ引きずっておりますので、今後の地元での活動においてのお導きを賜りたく存じます。よろしくお願い致します。 

【ソース】人間には、頭と心と体とがあります。それゆえまず、心の面で気持ちとして「行いたいな」という思いが湧いてきて、その気になってくることが必要です。気乗りしなかったり、感情的に恐れがあったり、嫌だったりすると、上手くいかない場合が多いです。

このように感情や気持ちが、まず一つのポイントです。同時に頭もありますので、頭でよく納得し理解し、受け入れられるようになることが必要です。「ARIの地元でのイベント開催が必要でためになる、意味がある」。そのことが論理的にも道理に適っていて、納得できるようになると、確信が持てます。

ARIの教えが素晴らしいと思われ、自分も縁を感じ、自分もためになったという体験があり、ARIの教えやメッセージに対して確信があること。そのように自分の内なる確信と、気持ちとしての情熱や熱意が、まず自分の中に必要です。そして「なぜ行うのか」「行う意味があるのか」「なぜ自分が行うのか」そのようなこともちゃんと整理されて腑に落ちれば、体も動いてくれます。

頭と心の思いが、体にまで浸透してくると、体もついてきてくれます。理屈の上でも感情の面でも「そうだ」と思えると、体も動いてくれるのです。後は、地元の周りの方たちとの人間関係の形成や、信頼関係です。そこで、日頃の自分の人望や人間関係が、問われることにもなります。

ARIのイベントを主催する場合、問われるのは、ARIの内容そのものと、もう一つは主催者の日頃からの人望や信頼の二点です。同じことを人に話したり勧めても、反応が違ってくるのは、その人の日頃からの態度や人望、人をどれだけ大切にしたり、交流をしているかにもよるからです。

例えば、船井幸雄さんが「ヨハネリーディングや浅野信はいいですよ」と言われて周りの人に勧められれば、多くの人たちが「船井先生がおっしゃることならそうなのだろう」と捉え、その方向で動きます。しかし普段から問題が多く、周りから疑問視されたり、快く思われていない人が「ヨハネリーディングはいいですよ、受けてみたらどうですか。イベントもありますよ」と言っても、「この人が言うことだから、どうせろくなものではない。とてもいいものとは思えない」と、捉えられてしまうことでしょう。

これほど極端ではなくても、多くの方たちがそれぞれ同じヨハネリーディングであったり、浅野信の講演会を開催する場合、そこに開きが出るのは、一つには本人の日頃からの人望や、人間関係を作って大切にしてるかどうかによります。そしてもう一つは、本人のARIに対する熱意や理解の程度です。また、その人がどの程度ARIとご縁があるかどうか、また動く役目があるかどうかにも、多少関わることでしょう。

本人がある程度人望があって、人間関係を持っていても、そしてARIの教えをほぼ理解していても、熱意や、いい意味での思い入れがないと、やはり周りは動かないでしょう。「これはいいですよ」と他人事のように勧めるだけでは、人は動かないものです。やはり、よほどの熱意と覚悟があって初めて、人様は動きます。そこで本人の人望や、日頃人のお世話をしていれば、それらの人たちはその方向で動いてくださるでしょう。

それはあなたも、これまで自分が関わったり見てきた方たち、特に主催してきた方たちを観察してきて、頷けることでしょう。やはり多くの方たちが集まる所は、本人に人望があるのと、ARIに対する理解があるのと、そして熱意があるからです。多くの方たちを集められる、そのような土地の磁場というのもあるかもしれませんが、一番は本人の熱意と理解と行動と、日頃の人望です。

これまでにも多くの方たちを、講話やリーディングにお誘いされてきている方は、その熱意や他の人に伝える思いは、半端ではありません。それはNさんを見ても、Aさんを見ても、Uさんを見ても、共通している点です。そのぐらいでないと、他の人はお誘いしたりリーディングを受けるようには、なかなかならないものです。

浅野語録の中でも、「ヨハネ自身が若くて、まだ自分が未熟なうちは、何も持っていない、人間的にできていないし、特別な能力も深い教えもない。そのような時は誠意を示すしかなかった」と語られています。頭を下げたり、心からお願いしたり、熱意と素直さを示すしかなかったのです。それで、未熟で何も持っていない青年に対して、何人かの方たちが動いてくださって、そして今日のような会になりました。

ある程度自分を守った上で、自分の知っているものの一つを紹介する程度では、なかなか人様を動かせないものです。情報通でいろいろなものを知っていて、「ほら、このようなものもありますよ」といった程度では、傍観者的で自分を守っているので、なかなか人様はついてこられません。安全な感じにも見えますが、やはり自分が飛び込み、自分をある意味で犠牲にするぐらいで初めて、人様は動いてくださります。それはUさんを見ても、明らかでしょう。

しかし、人にはタイプや、置かれた状況や立場もありますので、あなたはあなたの置かれた状況や立場や特性、また信念や気持ちに正直に行うのが良いのです。Uさんだったり、Mさんだったり、NさんだったりTさん、あるいはKさんやKさん、Mご夫妻、そのような方たちを拝見していて、参考になるものが得られることでしょう。

同時にその上で、「さて、自分の場合はどのようにするのが相応しく上手くいき、神の御心に適うものなのだろうか」と、「自分の場合は」ということで問うてみることが必要です。他の人のようには、必ずしもいかないからです。参考になるものは多く得られますが、やはり自分は自分です。「自分の場合、どのようにしたら良いのか」それを自己調整しながら、愛と知恵の両方を使って、探っていきましょう。

自分のこれまでの地元のお友だちや、霊的なことの学びで関われそうな方たちを大切にし、インターフェイス的な精神で、やはり行うことになるのでしょう。ARIそのものということだけでは、最初は難しいですから、他の会や他のことに関心がある方たちとの連携で、インターフェイス的に行うのが、実現の可能性があるのでしょう。

最初は初心者一般向けの講演会か、あるいはお茶会的な座談会で、講師とざっくばらんにお茶を飲みながら、質疑応答ができるという形も、良いかもしれません。一般向きの開かれた講演会の形式を取るか、あるいはざっくばらんな話を何でもできる、質問して答えてもらえる、そのようなお茶会ふうの座談にするか、それはあなたが地元の様子を見て、決めましょう。

地元の方たちを一番大切にさせていただき、その上であなたのARIのお仲間やお友だちで、**に来てくださる方たちもお誘いして、協力していただいたり、テコ入れしていただきましょう。あなたはいろいろな所に赴いていますので、あなたが地元で開催するということになれば、恩義を感じているARIの会員さんたちも、何人か駆けつけてくださることでしょう。お互い持ちつ持たれつで、それぞれの地域で花が咲き、ONEの木が生えて、しっかり根を下ろすように協力し合いましょう。

また、そのような場合はやはり、一つにすぐ絞るのは難しいので、ある程度枠を広げて、系統や考えは異なっている方たちも参加できるような形が必要になってくることでしょう。また、あなた自身が学ぶつもりで開催しましょう。自分は単なる主催者にならず、自分も学びたいしこれを聴きたいというので行うと、熱意が出ますし、アイデアも浮かぶし、自分に正直なので上手くいきます。

主催は主催、自分が学ぶときは学ぶときと分けずに、むしろ自分が一番聴きたかったことや学びたかったことをテーマにしたり、「自分がこういう形態や形式を望んでいたんだ」というのが密かにあれば、それをこそ自分の所で、実現させてみるのです。「なぜ他では、こういう形態を採らないのだろうか。自分はこういう形態が良いと思うし、それを望んでいるのに」そのようなものがずっとあなたの中に温まって、もしあったならば、それをこそ行いましょう。

あなた自身が学んでためになり、そしてあなたが主催していくプロセスを楽しめることが、上手くいく秘訣です。義務や仕事で行うのではないのですから、あなたが自分でワクワクしたり楽しめるような、それが近づくにつれ心が胸踊り、楽しいようなことになれば上手くいくし、たとえ小規模で終わっても、悔いは残らないでしょう。

「自分や自分の大切にしているお友だちが一緒に、自分が学んでいるものを学べた」そのような充足感があることでしょう。「自分が日頃学んで感動していることを聴かせたい」という思いが原点です。それが思いやりだからです。そこで神様が働かれます。

人は自分が良かったと分かり、感動したことは、「自分の大切な人にも聴かせ、共有体験をしたい」という思いに駆られます。自分が感動した本とか、映画とか音楽などを、自分の愛している大切な人にも体験して欲しい、知って欲しいと思うのが、人の心だからです。それと同じです。その原点を忘れずに行えば、上手くいきます。

「人事を尽くして天命を待つ」という超作の精神で取り組めば、気楽です。「この世的物理的には、自分が動いて行うのだけれども、霊的には神様がなさることなのだから、神様を信じてお任せしよう」それでいいのです。行いながら自分も成長し、勉強できます。自分の実力や人望が試される、とも言えます。しかしそれは、辛いことや怖いことではなく、楽しく張り合いがあることだと、捉えましょう。

【質問2】父が亡くなってから7ヵ月余りが経過しました。位牌に母と並んで戒名を刻んでいただき、3月**日の父の誕生日には仏壇も改まり、いい感じで収まっているように見えます。亡くなった後、父の様子はいかがでしょうか。お許しいただける範囲でお知らせください。(父・○○○○ 1926年3月**日生~2007年11月**日没/生誕地:**県**郡)

【ソース】お父さんは生前のお名前のとおり、優秀な人でした。利発で知識も幅広く、勘も働きました。よく考える人で思索家でした。考える傾向が強い人でした。教師は天職でした。前世でも人に教えたり説明したり、人の面倒を見たりしていた人です。教えたり分からせたり、面倒を見てあげるのが好きです。

今霊界では、落ち着いてきています。落ち着かないところもあった人ですが、今霊界では落ち着いてきているのです。何でも小まめに動いて行う人だったのです。霊界に来てからはむしろ落ち着いて、安らぎを感じ、しみじみと味わっています。思うところ感ずるところがあるようで、霊界では言葉少なです。むしろ静かにしみじみ味わって、感慨に耽っています。

生前のことを反芻し、噛み締めて消化しています。魂の次元でも食べたものを消化することが、人間には必要なのです。それで初めてこなされ、養分にもなります。人生について、しみじみと味わっているところです。それは霊界への備えにもなりつつあります。そのような待機期間、備えの期間を今通過中です。

まだ、霊界の共同体の中には入っていません。しみじみと味わって、準備中です。しかし、落ち着いて安定していますし、内省の気持ちが働いているので、いい感じです。生前のことに対しては反省もあれば、感謝もあります。

特に娘のあなたには感謝していて、ありがたいと思っています。「やはり愛情が全てだ」と思い始めています。理屈や正義や正しさなどが、世の中では先行しがちです。自分の正当性とか正義とか、論理とか理屈とか面子とか、自分の優位性、正しさなどが世の中では優先されがちです。

しかし本当に大事なのは、互いに理解し思いやり、事情を察する愛です。そのようなことを、今しみじみと確認し、味わっている最中です。「結局のところは愛なんだなぁ」と、思っています。根底に働いていた愛に、目を留め始めています。そしてその愛の命こそ、神であり仏なのです。霊界はそれで動いています。

落ち着いて静かに内省しつつ、霊界に備えつつあります。時々自分のパートナーであった妻も、やってきています。様子を見に、時々やってきています。まだ完全に一つになっているのではありませんが、時々現れ、様子を見て、二人で会話も始めているところです。

これからもこの世から、娘のあなたは手を合わせ、感謝し、礼拝し、お祈りを捧げ続けてあげましょう。子孫や縁者が、家の中に霊的な拠点を設け、そこを小ぎれいにしてその前で正座し、合掌し、頭を下げ、お祈りを真心からお供えすると、やはり家系のカルマが浄化されたり、家が浄化されたりするので、必ずこの世にも良いことが起きてきて、整ってくるものです。

そのようなことを今の日本は軽んじて、後回しにし過ぎたので、世の中が殺伐としてきてしまっているのです。そのようなことはカットしてはいけません。自分が大切な存在たちのためになることで、それがひいてはこの世の家や家族のためにもなってくるのです。この世は霊界との関連であるのです。特に日本の場合は、それが著しいです。

あなたは家を守る立場です。土地や家との関わりで、これからもよくご両親のことを霊的に見ていってあげましょう。霊的にというのは、愛をもってということになります。愛自体は、霊的とか魂的とか体的というのを超えた、一番の源泉なのです。

【質問3】母が亡くなって丸5年が経過しました。その後の母の様子はいかがでしょうか。お許しいただける範囲でお知らせください。(母・○○○○○ 1926年5月**日生~2003年6月**日没/生誕地:**県**市)

【ソース】お母さんは生前のお名前のとおり、俊敏で物事に長けていました。○○というのは俊敏だという意味です。物事に聡いということです。今霊界では活発に動き回っていて、元気です。活躍して飛び回っています。自由です。大分気持ちが整理され吹っ切れて、霊界で自由に動き回れています。あちこちに出向いて、他の霊たちとコミュニケーションしたり、働きかけたり、教えたり世話をしたりしています。また、自分で内省する時間も持ったり、自分があの世で修行する時間も持っています。それぞれのするべきことを自分の中で配分し、バランスを取って過ごしているのです。

お母さんはなかなか現実主義です。今はすっかり霊界にも慣れてきて、霊界で居心地が良く、霊界のことを思っています。しかし時々ふっと生前のことも思い起こされ、しみじみと感じたり感謝を感じています。かけがえのない独特の体験だったと、生前の人生を捉えています。この世がいいか霊界がいいかとは一概に言えないことで、比べられません。それぞれの味や意味合いがあるからです。

お母さんは現実主義のところがあるので、今は霊界に没頭しています。しかしたまに、この世のことも思い出しては、良かったと思ったり、味わいを感じて感謝を抱いています。そしてその分、霊界でも励もうと思い立って、また霊界で励みます。そのような形でこの世の人生も位置づけているのです。

飛び回っていますので、あちこちの霊界の様子やどこにどの霊がいるのかも、大分分かってきています。生前のパートナーであった夫も、霊界に来たことを知りました。そして、時々様子を窺いにやってきています。まだ夫は待機していて、内省したり霊界に適応できるように備えているところなので、ちょっかいは出し過ぎず、時々様子を見て確認し、安心してまた自分の所に、お母さんは戻っていきます。

しかしもう少し後になったら、完全にお父さんの霊も霊界に入り、夫婦で一緒にいれるようになる可能性が高いです。前世から縁が深い夫婦です。夫婦であったことがありましたし、また、きょうだいだったこともありました。身近な存在として、生まれ変わってきている者同士です。

お母さんは娘のあなたを自立させました。厳しい面もありましたが、その厳しさも優しさの表れでした。お父さんは娘のあなたに頼っているところがありましたが、お母さんのほうはしっかり者でしたので、娘のあなたに頼るというより、自分が気丈でしっかりしており、娘のあなたも自立するように仕向けました。今の娘のあり方や信仰心に満足し、誇りに感じています。やはり自分の娘であり、自分の娘であってよかったと思っています。

この世での関係は一代限りではあります。しかし大抵の場合は、多少形を変えながら存続していきます。あの世でも再会する場合が多いのです。次どのような関係に組替えられるか、それは心配に及びません。神様が一番良いように計らわれるからです。

大抵の場合は、前世からのご縁は引き継がれて続いていきます。霊界に行っても、生き続けています。存在としては消えないからです。関係性も断ち切られません。それゆえお父さんやお母さんの存在を感じてみて、「日々お父さんとお母さんがあの世で、自分への思いや囚われから脱却し、あの世でもカルマを果たし、成長を遂げ、神様に導き育てられて、救いに与らせていただけますように」と、よくお祈りし、神様に両親のそれぞれの御霊をお委ねしましょう。

「神様、何とぞよろしくお願い申し上げます」と神様に一任し、ご両親の御霊を託すればよいのです。後は神様が一番良いように、受け取って計らってくださることでしょう。それが愛する者に対する、人間ができる最善のことです。神様を信じて、お任せする、お委ねするということです。神様がそれを受け取られ、一番良いように計らわれるのです。

愛をテーマとして、これからも輪廻転生が必要な限りは転生し、縁のある者たちと共に愛を育み、学び、今後とも感謝と喜びと安堵感をもって、生きていきましょう。
リーディングを終了します。
(ありがとうございました)
<了>