2019年3月11日

生命操作はどこまで人間に許されるのか

№15513 2018.5.17

【質問1】ゲノム編集について、細胞の核に「生命の設計図」であるゲノム(全遺伝情報)が入っていて、それを狙った通りに改変する「ゲノム編集」というものがあるそうです。米国では既に心臓病の原因遺伝子を修復する実験が始まっているそうです。より健康でありたい、知能や身体能力を高めたいという願望による生命操作は、どこまで人間に許されているのでしょうか?霊的指針をお教えください。
 
【ソース】人類はアトランティス時代の科学技術のレベルに近づきつつあります。未だ、アトランティスのピークを超えていません。人間の霊的成長が必要です。それによって科学技術と釣り合うことができ、科学技術を正しく用いることができるからです。また、科学技術を正しい方向に発展させていけます。

アトランティス時代においても、現代の文明においても、最も欠けているところが人間自体の霊的成長が図られていないという点です。そのため、科学技術が正しい方向に発展していきにくくなっています。また、科学技術を十分に収めて正しく用いるということができにくくなっています。

どこまで行って良いのか、その分別もついていません。科学技術自体は良いとも悪いともいえません。ひとつの技術であり、また道具であり、法則に過ぎないからです。大事なことは人間がどのようであるかです。人間が用いるからです。人間の動機と目的、方向性です。

例えば、原子力においても原子力自体は良いとも悪いともいえません。しかし、それが一旦原爆として作られて、核兵器として用いられれば、悲惨な結果を招きます。破壊的に作用します。また、エネルギー源として原発で用いるにしても、その是非が問われます。現代において、見落とされているのは人間自体の育成と成長です。良心の目覚めとも言えます。魂の目覚めのことです。それをしないと危険です。そのようなレベルにまで科学技術が発展してきました。

アトランティスはまさしくその欠点によって滅びたのです。高度に発達してきた科学技術を正しく操作しきれない人間自体に問題があったのです。科学技術を扱う側の人間の中身が問われます。現代の文明もアトランティスの時と同じような歩みをたどりつつあります。科学技術を発展させることしか考えていません。このまま行くとアトランティス時代の二の舞になりかねません。その時期が近づきつつあります。

ゲノム編集も、また人工知能も、その一つです。それらが全面否定されるほどではないにしても危険性もはらんでいます。人間自体を進化させていかねばなりません。どういう場合には使って良く、一方どういう場合は使ってはならないのか。また、使う場合はどのように使わなければならないのか。それは霊的成長と深く関連しています。人間の程度が問われるのです。人間性が。病で苦しんでいる方の救済が目的ならば良いです。ゲノム編集も。しかし、人より勝ろうという野心や目標などのためにゲノム編集が悪用されると新たなカルマを作り、それ相応の結果を招きます。

本当に困っている方々の救済の目的ならばゲノム編集も許されるでしょう。しかし、それなりにやっていけてる人が人より勝ろうとして、それを自分のためだけに使うとしたら、思わぬ事態を招きます。これはゲノム編集だけに限りません。科学技術は今後このようなことに直面していきます。いろいろな面で。

例えば、動物実験ではすでに一部成功しつつあるコピーのような存在を作ること。それが、もし人間にも用いられたとしたらどうでしょう。フランケンシュタインのような存在が登場することになります。心や魂がなく、肉体的には発達していて危険な存在となります。人間がして良いところとしてはならないところとがあるのです。それを見分けるのは本当の叡智です。良心に根ざした知恵です。そもそも、どういうことはして良いか、そしてどういうことはしてはならないか、ということがあるということさえ、気づいていない科学者がほとんどです。

物理的な法則のもとに霊的な法則が働いているのです。今の時代状況は物理的な法則だけを解明して応用するほうに向かいすぎて、霊的な法則を解明して考慮することが後退しています。非常にアンバランスです。それをバランス化させることが緊急に必要になってきています。そうしないと、今後いろいろな面で思わぬ事態を招くことになりそうです。そのような時期が近づきつつあります。うまく用いれば病気を克服するようなことも多く出てきます。良いほうも。しかし、それで油断して、なんでもやれそうに思うと危険です。

まず、どういう時に用いて良く、どういう時には用いてはならないかの、両方があること。そして、それが実際具体的に一つひとつについて見分けられること。そして、その見分けた通りに現実に応用すること。そのようなことが必要になってきます。法律のようなものも必要になってくるかもしれません。そのことのための。こういう場合は適用して良い。一方、こういう場合は適応してはならないなどといったように。

【質問2】安楽死について、 2017年に女性脚本家・橋田壽賀子氏が「安楽死で死にたい」という発言をし、また著書も出されたようです。高齢者として「迷惑をかけたくない、存在価値が無い、天涯孤独」などの理由でした。高齢者が増加する中、同じような思いの方がおられると思います。安楽死について指針をお示しください。

【ソース】安楽死の場合は、たとえ実行してもそれほど大きな罪ではなく、それほど大きな弊害にはなりません。ただ、好ましくないということはいえます。安楽死は一種の自殺だからです。自殺が果たして良いかどうかということを問うのと似通っています。他者に直接の迷惑や危害を与えないという点では大きな弊害はありません。では、まったく自分だけに属することで他者に及ばないかというと、ある程度は他者にも及びます。本人は安楽死したくても、その人を本当に思ってる人を悲しませることになります。

また、霊的な親である神さまをも悲しませることになります。そして、自分の命も悲しみます。自らまだ生きる力が残っているのに、自分の命を断つということで。自分の普段の意識は安楽死を望んで実行に移しても、自分の命自体は納得せず命は悲しみます。肉体も悲しみます。まだ生き続けられるからです。

それによってカルマも作られます。自殺と似たようなカルマです。周りに迷惑をかけなくなるのだから、むしろ良いことではないかと思うかもしれません。しかしそれは、常識的人間的に見た認識です。周りの人は看てあげるのが大変でも、自らの命を断つような安楽死は望まず、看てあげるのが大変でも看てあげたいし、また看てあげる必要があるのです。

必ず原因や根拠があって物事が現れ必要な限り存続します。それを人工的に強制中断するのは不自然で、本当には終わっていないことを強制終了させることになります。それによって果たされるべきカルマや学ぶべきレッスンが強制終了させられます。本当には終えることになりません。

やはり、病気とか老衰とかで、やむをえず他界するということが自然です。それによってこそカルマが遂げられ、あの世に移行できます。ただ、他者に対して積極的に被害をもたらすというほどのことではなく、基本的には自分で自分の命を早めに絶つということですので、安楽死はそれほど大きな罪ではなく、のちに大きな弊害をもたらすというほどのことではありません。

自分の命を大切にせず、まだ終わっていないのに強制終了したというカルマはできます。本当に自分の命や肉体を大切にして、生きられる限りは生きるということが自然です。それだけの原因や目的があって生き続けるからです。それを自分の判断で強制終了するというのは、終えられていないまま終わらせることになります。

それと対照的なのが延命治療です。やはり自然なのが神の摂理に適っていて、支障を来しません。ただ、延命治療もそれほど大きな害はなく、生かそうとしても限界があり、ある程度延命治療で生かしても、生きられるだけのものがある限りしか生きられませんのでそれほど害はありません。延命治療も。

周りに迷惑がかかるとか、天涯孤独であるとか、このようなままでは生き続けたくないし、存在価値がないとか。それは本人の捉え方であり、それで自分の命を医療の技術を借りて強制終了するのは、不自然で、本当のことではありません。そのようなカルマを新たに作って、その結果を受けるようになっていくことでしょう。ただ、大きな罪ではないので、多少支障を来しながらその生命が存続していき、あの世に移行して、そのカルマを担いながら霊界で過ごし、そして生まれ変わってきます。

現代人は今話したようなことに対して鈍感であり、著しく疎いのです。科学技術を物的に発展させることには長けているけれども、魂や霊のことや神さまに関することがほとんどわからず、考慮に入れておらず、結果的に軽んじてしまっています。非常にアンバランスなのです。そうであるからこそ、ARIのようなところが必要になってきているのです。他にもそういうところや、そういう人は必要な限り出始めていることでしょう。それでなんとかバランスを取って進んでいくということになります。

【質問3】瞑想について、あるヨガマスターいわく「自己流の瞑想はバランスをくずしたり、憑依にあったり、危険な状態に陥ることもあるため、良き指導者につくことが必要」とのこと。瞑想についての留意点について、お伝えください。

【ソース】そのヨガマスターの言葉は一理あります。そのようなことは確かにあります。では、指導者につけば全く問題がなく、全てうまくいくかというと、そうでもありません。今度は別の弊害や問題が発生してきます。

基本的にはそのヨガマスターの言葉は正しいのですが、ただそれだけですべて解決するというほど、ことは単純ではありません。ヨガの指導者につくと、ある程度は守られ、偏りなくできるようになることは確かですが、ヨガの指導者とて人間であり偏りがあります。やってきた生徒さんや弟子たちに対して、自分の信念ややり方を押し付け、その下で指導しますので、その下で学ぶ人は指導者の枠にはめ込まれ、指導者の主観の弊害を受けます。

たまたまちょうど指導者と相性が良ければ、比較的スムーズにいき、うまくいきます。しかし、指導者と合わなかったり指導者自体の癖が強かったりすると、かえって損なわれてしまいます。それならむしろ指導者につかないでひとりでやったほうが良いくらいです。自分でやると自分の癖が出て弊害が生ずる。そういうことはあるのですが、指導者につけばついたで、今度は指導者の癖を受けて、指導者からのマイナスの影響も受けてしまう。何より型にはめられ、伸び伸びと自分に合う形でできなくなる。そういうことが発生してきます。指導者が良い人で、しかも自分と指導者の相性が良い場合なら恩恵を受けます。しかしそうでない場合は弊害もあり、弊害が大きい場合はひとりでやったほうが良いくらいです。

その言葉はヨガのマスターの言葉であり、ヨガのマスターという立場で自分が指導者なので、指導者につくべきだと言っている部分があるのです。その意味で鵜呑みにできません。ただ、それにも一理あり、もしその言葉がその指導者の誠意から出たものならば良いものです。しかし、自分のもとにできるだけ多くの人が来るようにということで発せられた言葉ならば、必ずしもよろしくはありません。我流ということでなく自分で自分をわきまえながら、その時自分に合う形で自分に瞑想させるようにするならば、ひとりでも瞑想できるし、むしろひとりのほうがうまくできます。

後は師匠との距離の取り方です。全くひとりで行うということは難しいということはあります。かといって全く師匠の下で行うと、師匠に支配され思うようにされてしまいます。それで師匠と適当な距離を保ちながら、自己流に陥らず、師匠に支配されたりコントロールされることもなく、師匠から良い影響だけを受けられるように関わるのが、上手な師匠との関わり方です。

自分の心を平らにして、今の自分に合う効果的な瞑想を見出して行うということにすれば、憑依されることはないし、偏っていくこともありません。動機が良く、バランスも良ければ、憑依されません。万一憑依されたら、憑依してきた霊も自分と一緒に上がっていけるように、霊と一緒に取り組み、自分のことも付いた霊のことも両方、根源の神さまにお委ねして、根源の神さまの下で瞑想や祈りに励みましょう。瞑想の始まりと終わりに根源の神さまに礼拝してお任せするのです。また、お礼するのです。

そうすれば、守られ正しく導かれ、成果が上がってきます。生きた人間の指導者の下でするべきだというよりも、目に見えない根源の神さまの下で、正しい信仰と健全な精神と動機を持って、自分に合う形で瞑想するということが本当なのです。

【質問4】ライフシールの意味について、以前受けたアロン・アブラハムセンのリーディングのライフシールの中心に「変化の書」の中に描かれている六線星形44番が出ました。易経の44番は姤(こう)天風姤(てんぷうこう)「女王蜂のような女」というものでした。今生のあなたを正確に描写しているとのことですが、あまりよく理解できませんでした。その意味について改めてお教えください。

【ソース】あなたは肉体的には男性ですが、女性的な面が結構あります。もちろん、見かけ的な女性的というよりも、もっと内面の性質のことを今、言っています。

男性のエネルギーはポジティブ、女性のエネルギーはネガティブです。ネガティブというのは悪い意味ではありません。消極的受身的で優しい力のことです。太陽と月にも対応できます。女性的な力はフェミニン・パワーです。あなたは肉体的には男性ですが、女性的なエネルギーの質が強いです。そうであるからこそ、公務員として合っていて、長年勤め続けられています。また、フェミニン・パワーが強いので、霊的なことや精神世界などに合っていて強く惹かれます。神官とか巫女とか宮司とか僧侶とかは、性別に関わりなく女性的な職業や役割です。神さまの媒体になる人も同様です。

そのようにあなたの内面性はフェミニン・パワーが主体になっています。消極的受身的で、周りに合わせ相手を支え活かすパワーです。優しい人です。ことさら自己主張したり相手を改宗させたり相手を支配したりコントロールしたりという、男性的なパワーの人ではありません。女房役的な人です。

それ自体は良いことなのですが、それに気づかずその自分の女性的なパワーが自分の中で実権を持ちすぎて、自分の中にいくつかある男性的な面の可能性を自分の主体になる女性のパワーが支配し、抑え込みコントロールしているのです。特に霊的な面でその女性の面が、自分の中で他の男性の部分を支配したり、抑圧したり力を削いだりしてしまっています。それが水商売的な女性という意味です。文字どおりの水商売という意味ではなく、スピリチュアル的な意味です。それが女王蜂で例えられたのです。それは表面だけ見てはわからないことです。

自分の中にそのようになってる部分があることに気づけば、そのライフシールが確かに的確であると気づけます。いわゆる、水商売的なふしだらな面はあなたには皆無です。全くありません。しかし、それで例えられるような、スピリチュアル的にそのようになっている自分の中で、受身的消極的な女性の部分のパワーが主体になって、本来の男性としての自分のいくつかの側面が、それで手玉に取られたり抑圧されたり力を削がれ、現実面での自分の男性としての意気込みやパワーがやられている。

そういうことが、もし起きていると思えたなら、そのリーディングの予告や警告が自分の中である程度成就してしまっているということです。そのようになりやすい部分をあなたの中に読み取って予告してきた徴です。そのライフシールは。しかもライフシールの真ん中にそれが位置しているということは、それがあなたの中心を占めていて、それが潜在的にはあることがキャッチできたということです。

スピリチュアルなものが水商売的だというのは意外に感じるかもしれません。実際的な面を大切しながら、健全な形でスピリチュアルが働けばもちろん良いものになります。あなたもそれを目指して取り組んできていることでしょう。もし、そのように調整が健全についているとしたなら、リーディングで予告されたことは幸い成就していません。成就しないためにそのような警告が予め発せられたのです。

以上のことに気づいて、その観点で自分を見直し、もし少しでもそういうことになりかかっている部分があったら、気づいて調整を図りましょう。そうすれば、そのリーディングで言われたことの意味がわかり、それを良いほうに振り向けていけることでしょう。
リーディングを終了します。

(ありがとうございました)
<了>