2010年12月24日

あの世に逝った人に対し、本当に為になることは?

リーディングNo.11180


【質問1】夫は、4月5日に他界いたしました。以前お伝えいただいた夫婦のライフシールのテーマに「喜びの訪れとなる人と人とを繋ぐ命のリレー」とあり、夫があの世、私がこの世にいて、夫婦で果たす役目があるように感じていますが、そうなのでしょうか? また、前世で夫婦であった時も、夫に先立たれていたのでしょうか? 現在の夫の様子を、お教えください。


【ソース】人が生きていく中で、もっともありがたいことは、神様との出逢いです。また、神様そのものとの出逢いの現れとしての、教えとの出逢いが、もっともありがたい、喜ばしき訪れなのです。


人間の本質は、霊です。心や魂、さらに体も、人には備わっています。体があるからこそ、この世に留まっていられます。その意味で、体は大事です。しかし、やはり人間という生命体の本質は、霊にこそあります。その霊を創造し、生かし、育て、導いておられるのが神様です。人間の本質の霊を直接生んで、司ってくださっている親です。


それゆえ、本当の親に出逢うということが、もっとも喜ばしき訪れなのです。それが魂や心、さらに体にも及んできて、元気になったり癒されたりします。また、いろいろ物理的に、この世で起きてきても、それらに振り回されなくなり、自ずとシャキッとしてきます。


本質のところの霊が、神様とのつながりを自覚していないと、気をしっかり保とうとしても、頑張ったり努力するだけで、無理があります。本質のところで神様に気づき、神様から与えられる教えを、自分の命の糧にすると、それほど自分に言い聞かせたり頑張ったりせずとも、無理がなく、自ずとやっていけたり、起きてくる事の意味も、これまでよりも悟ることができ、自然に受け止めて、応じていけるような態勢ができてきます。神様との出逢いと、そこから出てくる神様の教えを、人は命の糧として生きていくように創られているのです。


神様の導き育てられ方は、ちょうどまずガイダンスのように、一通り説明をしてくださり、それを聞いた者たちが「なるほど」と理解し、うなずいて、受け入れ態勢ができてきたところで、実地に出来事を起こして、試されたり、さらに鍛えられたりしていくのです。また、人生が地球学校であるならば、普段の授業を受けているのが、教えを学んでいることに相当します。そして、学校ならば、テストがあります。中間テストや期末テストのようなものです。普段の授業をどれだけ聞いて身に付けてきたか、テストがあります。


そのように、普段あなたは教えを学んできていたので、今回のような大変な事がテストとして与えられても、きちんと教えを勉強し、あなたの身に備わってきていたので、応ずることができました。あなたの霊や魂の命の糧に、教えがなっていたのです。あるいは、御言葉といってもよいのです。御言葉が命の糧になって生きられるのが人間です。体に食べ物や飲み物が必要なように、そして、心には愛情が必要なように、霊には神様からのお言葉と、霊的な理解が必要です。それによって、霊の部分が蘇生し、次第に態勢が整ってきます。


これまで学んできたので、テストがあったのです。あるいは、カルマや今世の計画からして、今ぐらいの時期に、ご主人が亡くなるようになっていたので、その数年前から、あなたが教えを受けて、自分を備えるように神様がお慈悲と、指導霊たちのチームプレーで、あなたは備えられてきていたのです。


起きる事は、予め完全に定まっているのではなくても、大まかには定まっています。起きる事が大事なのではなく、人間には心もあるので、物理的に何が起きたかということ以上に、心でそれをどう感じ、受け止められるかがポイントです。そのように、人間は内面的な生き物です。同じ事は同じ影響を誰にでも与える、と思ってはなりません。人間は、もっと内面的な生き物です。それが、霊的な成長や目覚めということです。


もし、あなたが苦しんだり、悲しんだりしたならば、ご主人のほうも動揺し、浮かばれなくなってしまうのです。人間は相互の影響で成り立っているからです。必ず自分の想いや感情が、相手に伝播していきます。人間には、知覚したり感じたりする心の働きがあります。さらに無意識もあるので、動物的な本能や超感覚もあって、特に夫婦や親子のようにつながりが深い者同士は、伝播し合います。


あなたが整ってきたので、ご主人を支え、穏やかにするように、あなたは働きかけているのです。その結果、ご主人のほうは今、まだ完全には安らかにはなっていないものの、ずいぶんあなたという妻のお蔭で、あの世で、それほどつらかったり悲しんだりという、心のとらわれに陥らずに済んでいます。


もし、本当に相手を愛していて、相手の為になりたいならば、あまり悲しんだり、起きた事を後悔しないほうが良いのです。しかし、多くの人たちは、相手を思うあまり、悲しんだり、感情に囚われてしまい、その結果、相手の為になろうと思うことが、かえって相手をもつらくさせたり、動揺させる事を引き起こしているのです。愛が正しく働くためには、理性や平静さも必要なのです。


一見すると、愛は感情の一部であるようにイメージされ、感情的に喜んだり悲しんだりするのが、愛の表れだと思われがちです。しかし、どのようにすると相手の為になるのかをよく考えて、平静に対応することが、結局は大切な人の為になるのです。愛が正しく働くためには、知恵が必要です。本当の知恵のことです。そうすると、愛という生命エネルギーが正しく作用し、役立ってくることになります。あなたは、知らず知らずのうちに、そのように整ってきたし、元々は、あなたは感情的なタイプの人だったのですが、自分のタイプを乗り超え始め、いい感じで整ってきているのです。


性格を変えるよりも、霊的に成長することです。そうすると、性格を変えたというよりも、元の自分の気質を乗り超えて、元の自分から自由になって、大きな存在になってきます。あなたは、感情的なものを克服し、知恵に目覚めつつあります。それによって、自ずとしっかりして、動じなくなり、受け止められるようになりました。相手を支えるためには、受け止められる度量を、身に付けることです。それが、本当に相手を支え、大切な人の為になることをもたらします。


そのように自分に器が備わってきた上で、あの世に還ったご主人に対しても、あなたが温かい心で受け止めながら、平静で、神様をしっかり見る眼差しを持って、神様にお祈りしながら、ご主人のことも委ねていれば、本当にあの世のご主人の為になれます。本当に大切な人の為になりたいのならば、このようなことに人々は気づくべきです。そして、そのようなことに気づいている人が、真に賢い人であり、それを行動にまで移せる人が、愛の人なのです。


あなたは知らず知らず、神様によって育て導かれ、そのようなありようになってきました。そこで起きるべき事が起きたので、あなたは何が起きたかを悟り、事態を受け止め、大変だったけれども、対応し、すべてをこなすことができました。ご主人は、あなたによって支えられ、あなたに感心しています。命のリレーは、これからも続いていきます。あなたは、まだこの世で体験するべきこと、果たすべきことが残されています。それゆえ、あなたはまだこの世に留め置かれ、ご主人の分まで、この世で学んだり、励んでいったり、体験していきます。


ご主人は、今世でするべきことを果たし、この世から免れ、解放されました。それによって、あの世に還っていけました。あの世は安らぎどころです。夜の眠りに相当するからです。あの世は癒します。ご主人は、まだ戸惑いもあり、感慨深げな様子ですが、苦しんではいません。まだ少し寂しい感じですが、苦しんだり、悲しんだり、心を乱したり、体が痛んだりはしていません。


この世で共感というのがあるでしょう。本当に心が通じ合っている縁の深い人とは、苦楽を共にするものです。それと同じように、あの世に還っても、この世とあの世との家族は、それぞれ連動し、共感し合っているので、相手の為にも、あまり自分が苦しんだり、後悔し過ぎたりしないことです。お互いに気持は分かち合い、通ずるからです。しかし、本当に自分が苦しかったりつらい時は、自分だけで我慢しないこと。まず、神様と分かち合わせていただくこと。それゆえ、イエス・キリストも『私の頸木(くびき)を負いなさい。私の頸木(くびき)は負いやすく、荷が軽い。代わって背負ってあげましょう』と言ってくださったのです。


あなたは、これからこの世で介護のお仕事を続けながら、多くの人と分かち合いの精神で看てあげ、また、共感がONEであるということで進んで行くことでしょう。それが愛ということです。お互いに苦楽を共感し、分かち合うことで、頸木を負い合い、共に歩むことが愛です。そのような同胞愛を、神様はたいそう喜んで受け取ってくださります。ご主人も次第に、あの世で癒され、あなたのこの世での活躍を、とてもありがたく、微笑ましく見てくださることでしょう。前世でも、何度か夫婦の時がありました。必ずしもいつも、ご主人が先だったということではありません。


古代エジプトの、アクエンアテンからツタンカーメンにかけての時期、夫婦でした。とても微笑ましい夫婦でした。また、日本の飛鳥時代においても、とても仲の良い夫婦でした。必ずしも、ご主人が早くに先立ったということではありません。では、何ゆえ、今世では早かったのでしょうか。それは、あなたが真に強くなり、自立するためです。自分で行えるところまできたからです。また、ご主人には休養が、天から与えられたのです。


あなたは、多くの人たちとの関わりで、これから生きて行く方向に導かれていくでしょう。既に、そのようになってきています。人のありがたさや必要性を、ますます感じていき、愛が何かを、あなたは身をもって、これから体験していくことでしょう。人とは、何でも分かち合っていくと良いのです。そして、ご主人の存在は、もうこれまで以上に、直に感じられることでしょう。あなたが霊的になっていくからです。元々死後の世界に、あなたは興味がありました。それゆえ、貴重な体験を今、受け入れられ、それを背負える時期に与えられたのです。


【質問2】知人のAさんは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症され10年になります。Aさんが心から癒されますよう、病気の原因等を含め、今の状態がいつまで続くのかを、お教えください。また、旅立たれる日までの心の持ち様についても、お教えください。


【ソース】物事が偶然起きることはありません。必ず訳あって、どんなことでも起きてきます。元々、仏陀が悟られた〝縁起の理法〟とは、そのことです。そして大事なことは、すべてに原因があって、その結果として起こるばかりでなく、いわば第一原因、あるいは根本原因は、神にこそあるという認識です。直接の起きることの原因は、当人の前世にある場合が多く、それをカルマといいます。カルマ的因果関係です。本人が想ったり、行ったことの結果が出てくる。


楽しいことも、つらいことも、このカルマの因果にあるため、直接には本人の想い方や、行い方や、生活の仕方、食べ方などが原因です。しかし根本原因、あるいは、霊的な原因は、神様の中にあります。起きることの霊的原因や根本原因は、神様にあるということ。そこに思い至ると、何か安心でき、どんなことでも真の意味で良いことだから、また、必要で、それを受け止めることが、その時点で為になるからと思えてきます。


神様が起こされるのですから、安心ですね。もし、自分が行った直接原因だというカルマだけを見ると、自分の至らなさを反省したり、後悔したり、自分を責めたりということで、自分を追い詰めることになりかねません。しかし、もっと奥に、神様が根本原因として、そのカルマ的な因果関係を上手に運用して、良い方に導いていくように介入してくださっておられるのです。それゆえ、神様はカルマを解いてくださるばかりでなく、それによって育てあげ、愛に気づかせる、いずれにせよ、良い方に引っ張って行ってくださるように事が生じます。


Aさんの場合も、そのような深い目覚めや納得が、心の奥に生ずると良いのです。そのような深い理解や納得が、心の奥に生ずるように、あなたもお祈りをしてあげましょう。また、もしAさんご本人に、そのような理解や受け入れ態勢が少しずつでも出来ているならば、ご本人が「本当のところに自分の本質の意識が気づき、自分が受け入れられるようなありようになっていきますように」と、ご本人が、神仏にお祈りをすると良いのです。


お祈りというのは、口だけの動きではなく、全身全霊で祈るものです。すべての営みです。生命のすべてをかける働きです。すべてを動因して、人は祈ります。そうすると、自分の奥深い部分が理解し、納得し始めます。それによって、起きてきている事の意味が悟られ、受け止められるような態勢ができてくるのです。そうなってくると、エネルギーが流れ始め、カルマが解けていきます。それに伴い、体も心も楽になり、そのような病を引き起こしているエネルギーが消費され始めて、次第に楽で、回復する方向に向かいます。ある程度は、元になるエネルギーが消費されるまでは、つらさや病状は続きます。しかし、次第にエネルギーが動き出し、流れ始めて解け始めます。


逆に、このようなことがまだわからない人たちは「なぜだろう。どうしてこうなってしまったのだろう…」そのように自分を不憫に感じ納得できない、受け入れられないという思い、あるいは心配や怖れで、神様が解かせようとしているエネルギーを止めてしまっているのです。そうすると、体も心もしんどいし、治りにくいです。止めているようなものですから。受け止めて、体感しながら、通過していく構えができてくると、エネルギーが動き出して解け始めるのです。また、神様の純粋なエネルギーも入ってくるようになります。


エネルギーは、流れると良いのです。水の流れと同じです。止めると淀み、濁ります。ちょうど気の流れも、流れると、爽やかで健康です。例えば、人間が健康で快適である重要な条件の一つは、排泄作用です。解毒作用です。良い物を摂る、食べる物でも飲む物でも、体に良い物を摂る、摂取する。もう一つ見落とせないのは、体に溜まった汚いものを排出する作用です。Aさんは、それが滞っています。


浄化が必要です。浄化のためには、野菜を多めに摂取すること。あるいは、もし体力的に可能ならば、生のリンゴだけを3日間摂って、3日目の晩、仕上げのように大さじ3杯のオリーブオイルを摂ること。そうすると、もよおしてきて、胃腸などに溜まっている汚い物が、全部外に出てしまいます。体に溜まった淀んだ物を出すということが、特に彼女には必要です。また、ピーナッツオイルとオリーブオイルをブレンドしたものを、擦り込むように、体に痛みや支障のある箇所を、やさしく、可愛がるようにオイルマッサージを施すと、次第に回復し、楽になります。


前世で、自分を可愛がることをしなかったのが原因です。セルフケアが必要です。自分で自分を認め、自分に愛情を注ぐこと、自分の体を労わるように扱うことです。体にも心があるので、体をいじめ抜くと、体が哀しみ、弱ってくるのです。体の愛情不足です。それゆえ、彼女は本当の自分を愛することを学び、実践する必要があります。たとえ、すぐに症状が回復しなくても、動揺したりせず、以上勧められる方法や心がけを実行し続けてください。また、周りの人たちも、彼女が自分の課題をクリアできるように手を差し伸べ、温かく見守ったり労わってあげましょう。


そして、人生に希望を持つことです。何か2つ3つ、張り合いになること、健全で、自分や関わる人の為になるような目標を持つ、無理のない目標、健全で、ほのぼのとした楽しみを持つこと。そうすると、それが支えになって生きられます。執着するということではなくて、励みになるものを持つのです。あなたも、ただ見てあげたり、治療するというだけでなく、楽しく過ごせるように相手してあげてください。一般に、治療が思うほどにははかどらない理由として、義務的、形式的に治療を行い過ぎていることがあるのです。


人間は、機械的、形式的に処理されて、治療に専心するように仕向けられても、それだけでは治りにくいです。心があるからです。やはり愛情で満たされ、心から納得して、嬉しくなってくると、妙に元気になるでしょう。それが結局は、病を治すことになるのです。くよくよしないように、しかし、くよくよしている人を無理に頑張らせたり、明るくさせるというのも、無理がある時があります。相手をよく見て、お相手してあげましょう。


【質問3】夫ががむしゃらに働いておりました会社「B」を継ぐことになりましたが、これからは、生前、夫とも話し合っていたように、夫婦のライフシールの下側にもあった、無邪気な精神、遊びの精神を大切に、ヘルーパーさん、利用者さんと共に、チームワークを大切にやって行きたいと思っています。経営的には厳しいかもしれませんが、その方向で営んで行って良いのでしょうか。よろしくお願い申し上げます。


【ソース】物事が実際に起きたということは、それが必要であり、真の意味で良いこと、そして、当人がそれを受け止められ、理解し、対処できるところまで成長を遂げてきたことを物語っています。誰においてもそうなのですが、特に神様を信じ、教えを学び、その方向で取り組もうとしている人に起きた事は、なおのこと、今述べられた条件が当てはまっています。


それゆえ、あなたの身にそれが起きたということはあなたが乗り超えられるし、これからは、その新体制で行うと良いということです。人の大切さを認識しお互いに助け合い、持ちつ持たれつで人生は生きていくと良いのです。地球家族というイメージをもって人間は誰でも本来、神の家族である、宗旨宗派を超えてすべての命の親であられる神様の家族であると思えれば、ちょうどマザーテレサのような心境に近付いていきます。それがあなたの理想なのです。


それを実現できるところまで来ました。その方向で事が動き出しています。多くの人たちをうまく巻き込みながら、共々に人との関わりで、これから生きていき、互いに満たされるように関わっていきましょう。


リーディングを終了します。


 (ありがとうございました。) 
  
<了>

2010年12月11日

ヒトという生命体の基本構造、霊・魂・体の三重構造を明らかにする。

リーディングNo.1842

先ず、本日のリーディングの目的ですが、今後数回にわたり、ヒトという種の生命進化の基本メカニズムを、特に生まれ変わりの仕組みの解明という点に焦点を当てて、探っていきたいと思います。本日はその第1回目です。過去のリーディング内容と質問項目が重複する部分がー部ありますが、御了承下さい。

【質問1
生命の基本構造について。ヒトという種は、霊・魂・体の三重構造をした生命体であると指摘されています。そこでこの三重構造に関し以下の点にお答え下さい。
霊・魂・体の定義:霊・魂・体とはそれぞれ何なのか。また可能な範囲で、現在物理で一般的に物質の基本と見なされているトップクォークやボトムクォーク等の素粒子と霊・魂・体という存在とは、どのように関係しているのか、お答え下さい。

【ソース】
霊は絶対的な領域に存します。それに対して魂や体は相対的な領域に属します。そこがまず決定的な霊と魂・体との相違です。体(たい)は肉体のことです。身体と言っても良いでしょう。これについては、いまさらこれ以上述べる必要はありません。そのままその通り肉体のことを指し示すのみだからです。

さて、魂(こん)、つまり「たましい」ですが、それは心の事です。心は科学的な現代心理学の中で扱われる対象になっています。もっとも心そのものを扱っているとは言えず、心の働きを現象面からようやく科学できているに過ぎません。これまでの科学では動いているものだけを測定したり、検証したり、できるのみだからです。したがって、これまでは魂の働きだけを科学できたのが精一杯のところでした。未だにそうです。心そのものは未だ捉えられていません。

心が在るというのは何となく実感としてお互いに感じているだけで、そのような頼りない相互の了解のようなものの上で、心理学が構築されてきているだけです。お互いに見えれば在るというようなところから始まっているということです。働きがあるならば、つまり働きが見えるならば、あるいは捉えられるならば、それは在るというふうに見なされています。働きから入っているというのが、現代心理学の一大傾向を成しています。

行動主義心理学はその最たるものです。それで心理学の中でも、行動主義の心理学が一番科学的であり、自然科学の側からすれば、行動主義の心理学しか科学としては認めていない位です。他の心理学はみな、人文科学の方に入れられています。それはどこか厳密に科学として成立し難いものを持ったまま行われていると、少なくとも科学者からは見なされているからです。

魂の「働き」を科学して来ています。機能の面からそれは認められて来ています。魂や心の存在そのものは未だに立証されておらず。したがって検証も受けていません。それでこれからは、魂の存在自体を科学的に立証するということが求められて来る事になるでしょう。

魂はともあれ心の事です。心と少なくとも見なされているところの実体です。果たして実体として在るのかどうかさえ定かではありません。少なくとも科学においては。ただ働きがあれば存在が在るだろうというふうなところから始まっているのです。火の無いところに煙は昇らないといったのと、あまり差がありません。

しかし私たちは、心は在ると見ています。その心は特に感情として表出します。そしてそれは科学的に扱えるようになっています。意志となると、これは少し難しくなって来ます。心の働きとして意志、感情、思考等といった事でー般に扱われています。あるいはそのように分けて、心の動きが捉えられています。今ここではこれ以上、心に関して探りを入れません。ただ単純に魂とは心の事であり、現代心理学で扱われて来ている対象の事を、私たちは魂として扱って来ているというふうに捉えて下さい。

次は霊に移ります。霊とは私という自覚を引き起こす当のものです。その主体となるということです。後で言及する事になるでしょうが、ここが動物以下とヒトとの違いであります。動物までには霊は備わっていないからです。後で霊が進化のある段階から出て来るのです。それがヒトです。それでヒトは万物の霊長であるとも言われて来ているのです。

皆、生命は持っています。植物でも動物でも。生命体には違いありません。けれども生命体であるからと言って、霊まで備わっているとは言い切れないのです。ただヒト以上の進化レベルに達した時、始めて霊がそこに新たに加わって来るのです。それでヒトの本質は絶対のところに根差しています。それで宗教の方ではヒトは神の子であるなどと言うのです。

さて、この霊は光として科学的には捉えられます。それがために、霊の実体は光であるなどとも言い、宗教の方ではヒトを光の子などとも言うのです。もっとも、霊より下位のレベルでも、例えば魂においても光は放っているのです。ただし魂の方の放つ光は色を持っています。相対的だからです。それに対して霊の光は白です。そこが同じように光を放っていても、魂と霊との違いです。

さて霊は自我という事で捉えられます。霊と自我は同じ事を指しています。同じものを指しているのですが、指し方が違います。それで霊とも言い、自我とも言うのです。霊と言うのは、その在り方としてそれを指す時にそのように言います。それに対して自我という時は、その霊の特色と言いますか、役割からしてそれを自我と呼ぶのです。

さて、この霊とも言い、あるいは役割からして自我とも呼ばれて来ているところのものは、相対的な領域においては無いのです。絶対界においてのみ在るのです。相対界において無いから、絶対界においてはじめて在る事が出来るといったあり方をしています。それで「相対界でしか通用しない科学では扱えない」と言う以前に、全く感知出来ないので、対象外として、そのようなものが在るとか無いとかいう事すら検討されません。

超心理学の場合は、魂の上位の特殊な現象面を対象として来ています。霊の働きや霊そのものを問うという事は、超心理学の場合でも殆どありません。大体科学は現象面を科学して来ているのみです。存在やその本質を科学して来てはいません。宗教現象や神の働き、それらを科学しようとはして来ていますが、現象を生み出す元になる存在を科学する事は念頭には無いようです。

新しい科学はその存在並びにその本質を科学する事になるでしょう。そこへと導くのが、このリーディングの役割のーつとなってきます。そのような新しい科学の方法論を出して行くというのも、このリーディングの役目の一つとなってくるでしょう。新しい科学が構築されるためには、先ずその前に、新しい科学の方法論が出て行かねばなりません。

今の科学の限界は、科学の方法論の限界から来ているからです。それで科学的に扱いようがないというのが現状です。特にこの霊の領域においては、これまでの科学はお手上げといったところです。霊は絶対的な生命の事です。それに対して相対的な生命は、魂の下位の部分です。それはエーテル体とも言います。

さて、霊、魂、体という分け方は、簡略化された分類法です。もう少し厳密に分けますと、自我、アストラル体、エーテル体、そして肉体という四分類法になります。実はもっと細かく分ける事も可能です。けれども今それに立ち入りません。

よく生命と言われているのはエーテル体の事であり、これが魂の下位に相当するのです。それに対してアストラル体の方は魂の上位に対応します。アストラル体は感情体、感情で出来た体の事です。エーテル体はそれに対して生命体の事です。生命科学等はこのエーテルレベルの生命を扱っています。

ちなみに「気」というのは、この生命体と深く関わりがあります。肉体と生命体、つまりエーテル体とのエネルギー交換を起こすのが、いわゆる「気」だからです。それでいわゆる元気になるという事が起きるのです。この辺のところを操作するからです。

このような生命に対して、言わば絶対的な生命というのが在り、それが霊なのです。それで霊のところが動き始めたからと言って、肉体がそのまますぐ元気になる、という事には繋がりにくいのです。生命として存続させている元になるもの、それが霊なのです。そのような生命です。それに対してエーテル体の方の生命というのは元気が出るとか、元気が無くなるとか、健康になるとか、そういったレベルの生命なのです。

科学の方で生命と言っているのはこちらの方です。霊の方の生命は普通生命とは思われにくいものですので、生命と言ってもあまりピンと来ない筈です。その生命体そのものを存在として成り立たせている不可抗力とでも言いましょうか、それが霊です。それは何ゆえそのようになるかと言いますと、私という自我の働きに因るのです。私というふうに思わしめているところの、それを支えている力とでも言うもの、それが霊なのです。そして、それが輪廻転生をも起こします。

さて、最近の物理学における素粒子等との関わりですが、人間は言わば電気的存在です。霊、魂、体の構造については、以下の項目で言及されますが、ここでは定義と言う点で少し見て行く事にします。身体、つまり肉体に関しては、リーディンクとしてあまり語るほどのものは無く、現代の科学に委ねられて行きます。それでリーディンクとしては、霊や魂のところで、物理学の方で解明されて来ているものと、どのような関連性を持っているのか、と言うのを少し見て行き来しよう。

魂は先ほど上位と下位に便宜上分けられ、上位がアストラル体として構成されており、下位の部分はエーテル体として在ると述べました。エーテル体は魂を保持する力です。エネルギーの源と言ってよいでしょう。魂のエネルギー源がエーテルです。

さて、エーテルという言い方は現代科学におけるエーテルとは、同じ用語でありながら別様の意味を持たされています。したがってエーテルと言う場合、学問の方でのエーテルをそのまま当てはめてはいけません。その辺のところはリーディングでまた検討される必要性が出て来るでしょう。今はそれに立ち入らず、定義のところから必要な事だけを述べます。

アストラル体は感情によって創られている体の事です。したがって、この感情によって創られている体が、物理学の方での物質の構造のあり方と、そのまま対応するという事にはなりません。いわゆるあの世とか霊界とか言われている領域、そこで皆持っている体、その体を構成しているのがこのアストラル体だと思って下さい。俗に言う幽霊が持つ体がアストラル体だと思って下さい。心霊科学ではこれを主な対象としています。

そしてそれが元気になったり、衰えたりするのは、それを支えるエーテル体によると見て下さい。霊界の存在たちの体の構造がどうなっているか、それが魂の体がどうなっているかという事なのです。

これはどう見ても、普通の物理学で扱う物質の構造のあり方と同じとは思えません。そもそも物理学の方で物質の構造を解明して来ているのは、物質の構造である以上、それは体の次元に限定されている訳です。物理学の対象はその通り体の次元に特定しています。そして、そこの体の次元での構造のあり方に、探りを入れて来ているという事です。

したがって心の領域、つまり魂の次元には、そのままそれが通用するとは思えません。ただしかしながら、関連性は魂と肉体レベルの間にはあります。その関連性を後に見ていく必要があります。魂が原因であり肉体が結果だと私たちは見ています。魂が肉体を造り出すという事です。したがって、原子の構造、あるいは配列が魂と肉体との間で共通しているという事にはならず、むしろ両者の関連性はあるのですが、その関連性の内容は因果関係だというふうに見て下さい。

どういった因果関係かと言いますと、作者と作品といったような因果関係です。魂が顕在化したのが肉体というふうにも言えます。それで魂の方は潜在化している肉体、肉体の方は顕在化された魂という事です。肉体は魂が物質化された言わば影です。魂が現象化してきたところのもの、それが結果として、最後に肉体という結果を結んでいます。

直接、魂の構造はどうなっているかという結論を、人は知りたがります。けれども私たちはむしろこのような関係性から探りを入れていき、人々にその関道性の中で、両者の関わりのプロセスを見させるというところで、何かが生み出されて来るというプロセスに着目させるところに、私たちは力点を置いているのです。

これがおそらく科学的な探究をする人間の科学者と、私だちとの決定的な違いでしょう。そこが学びとなり、あるいは上位の意図がそこに在るからです。常に学びであるという捉え方です。

リーディングも、したがってそのような方向でなされていく事になるでしょう。それでリーディングでは、質問してすぐいきなりその答えが正解として出るという事はあまりありません。プロセスにおいてのダイナミックな創造というものが、各自の中でプロセスを通ることで起こるという事が目論まれているからです。それはゲーテが強調したところのものでもあります。私たちはゲーテ学者ではありませんが、真理の一端をそれは伝えているという事です。

さて一項目めが少し長くなり過ぎています。それで結論を急ぎます。魂に関しては、クォークを始め、電子やニユートリノといった構成因子から成り立っている、ということは無いという事です。感情の作用がカルマとしての構成因子です。このように魂の構成因子はカルマというのが結論です。つまりその生命が営みをなし、その営みがそこに潜在的なエネルギーとして留まる時、その留まり方に応じて、それに相応しいあり方をそこに起こすという事です。

さて霊の方のあり方ですが、これは絶対界に在るために、最初にお伝えしました通り、相対界では無いという形で、つまり存在しません。存在しませんと言うより存在出来ません。絶対界において、したがってそれで始めて在る、つまり実在出来ているという事です。絶対界を科学的に扱えるのはいつの事になるでしょうか。とりあえず今回のリーディングでは、この一項目めはここまでとします。
次どうぞ。

【質問2】
霊・魂・体の存在理由についておたずねいたします。霊・魂・体はそれぞれ、なぜ存在しているのか、お答え下さい。

【ソース】
先ず霊から入ります。霊がなぜ存在するかというのは、少し宗教的な表現に先ずなってしまいますが、神の同伴者として存在すると言っておきます。神のパートナーと言ってもよいでしょう。神は本来絶対的なあり方として存在しています。

さて同伴者という言い方をしました。それと共に、ここでもやはり因果関係が両者の間に認められます。神が親ならヒトの本質である霊はその子です。そのような親子関係が、という因果関係がお互いの間には見出されます。

さて神と言ってしまいました。いずれ神とは何かという事を、神そのものを科学するという事が、最終的になされてくる時が来ます。とりあえずその神を科学的に解明するまでは、従来通り神という事で、ここは一時通過させてもらいます。

創造主というのは、絶対的な本来の神が創造という役割を果たす時の、神の別名です。したがって創造主と神は同じですが、しかしどこでその方を見ているかによって、神と純粋に呼ぶか、あるいは創造主と呼ぶかが違ってきているという事です。同じ方なのですが、一つにしてはいけません。

神は創造を起こしますが、創造を起こさない以前の神が本来のあり方だからです。したがって神をそのまま創造主と置き換えてはいけません。創造するというのは神の一つの属性です。そしてその働きのところで、ヒトというのが始めて登場して来たというふうに見て下さい。

それで、本来神とヒトは関係ありません。後で関係が生じるようになったと言うか、もう少し正確に言い換えますと、神はただ神です。ただ神には物や生命を造り出すという属性も在り、その時に物を造り出すという事の働きから、その面の神を創造主と呼ぶのです。

そしてそこで造られた側から見て、神を父とか創造主とか呼んでいます。あくまでヒトから見ての父です。神はそれ以前に神だからです。人間を造り出した時点で、造り出されたヒトから神を父と呼ぶに過ぎません。関係性から父と呼ばれるだけです。その関係性を自覚した時、ビトは神を「父なる神よ」と呼ぶようになったのです。創造するのが神の全てではないという事です。

さてその創造されたものは何でしょう。それがヒトの霊のところです。それが神によって造られたところのものです。ではヒトの魂や肉体は創造されなかったのでしょうか。神によって直接は創造されませんでした。神によって直接創造されたのはヒトの霊のみでした。霊の部分のみです。部分と言いましたが、これは厳密な言い方に適っていません。

この世の言葉で、ピッタリと適当に表現するのは困難を窮めます。霊、魂、体とそれぞれの部分部分が在るわけではないからです。部分部分同士は並列の関係に過ぎないから、霊の部分という言い方は相応しくないという事です。そのように捉えると非常に正しく把握するのを妨げてしまうという事です。

さて今は存在理由ということで見ています。霊の存在理由は、神が神としてあることを止め始めた時から、創造という業が行われるようになり、それで同伴者が造られた。そしてそれは神が神自身に向かい合うという願いから生じたという事です。それで霊が神によって造られ、神は鏡に自らを写し出すように、ヒトに向かい合うようになったという事です。

霊はヒト以上にしか備わっていないという事は先ほどお伝えした通りです。神は私であるという自我を特徴とします。それでヒトは私という自覚を動物と違って持っているのです。そしてそこからカルマを生じる道が開かれ、個別性が生じ始めました。そしてカルマの営みが、自我が備わった時点で始まり、それでヒトは魂を造り出すに至ったのです。霊は神が造られましたが、魂は自分の霊が造り出したものです。そしてその魂が更に肉体を造り出しています。こういった順序であり、関係性が相互には見出されます。

それで、魂の存在理由は霊の働きの結果、魂が生じたという事なのですが、存在理由としては、霊の乗物というたとえが相応しいと言えます。食べ物があればそれを盛る器が必要となってくるようなものです。果物があればそれを載せる皿のようなもの、その果物と皿との関係が、霊と魂との関係に近いと言えます。

また霊を機能させるところの一段下位の粗雑な現象界での霊を機能させる当体、その正にそのもの、それが魂です。更にそれを下位の次元に下ろして来て、物質的な現象世界の中で魂は更に示すために、肉体が新たにさらに魂によって造り出されたという事です。

また肉体があって、始めて魂がその中で機能できるという、それを支えるために肉体が魂のために在る。逆にその必要性があって魂が肉体を造り出した。そのような相互依存関係が魂と肉体との間には在ります。必要で自分を生み出し、必要で自分から、より下位のレベルのものを生み出した。そしてそれが自分を支えてくれるようにもなってくれている。そういった相互関係です。

魂と肉体の関係ばかりでなく、霊と魂の関係もほぼそのようになっています。ただこの両者の間には絶対と相対という決定的な隔たりがあります。それで厳密に見て行けば、必ずしも霊と魂、魂と体の関係は同列ではありません。霊と魂の関係は、原罪と呼ばれてきているものが介在しています。これは宗教の神話の一部です。自由な創造から純粋に霊が魂を造り出したのではなく、そこにミスがあったという事で、霊から魂が造られたと言うより、造られてしまったと言うべきです。

そしてそこから輪廻転生ということが、ヒトの生命進化には付きまとうようになってしまったのです。この項目に関してはここまでとします。
次どうぞ。

【質問3】
霊・魂の構造についてお伺い致します。霊や魂は、体がいろいろな内臓や器官から構成されているように、さらに一定の構造をもっているのでしょうか。霊や魂の構造というものがありましたら、その基本構造をお答え下さい。

【ソース】
心の働きあるいは営みと言っても構わないと思いますが、それらが魂としての体、魂の体です。それを構成しているところのものです。働きや営み自体が、それを構成する元になるというのを、東洋の宗教ではカルマと呼んでいます。カルマによって魂は織成されているという事です。もっともここで言うカルマは広義のカルマであり、一般的な意味合いでのカルマだと見て下さい。もちろんその中にはいわゆる狭義のカルマも含まれてはいます。

カルマは本来働きという一般的な意味を持っているに過ぎません。そのようなカルマです。働きがあるとそれは何らかの結果を結ぶはずです。行為をなすと何らかの結果を生み出します。そしてそれは行ために相応しいもののはずです。そしてそれがまた元になって、次の行為がなされます。行為の連鎖関係です。

先の行為が後の行為を規定し、あるいは方向付けて行きます。そのようにして、それ特在の個性というものがそこには自ずと出て来ます。それで皆心が違います。興味や関心、恐れやその魂なりの卓越性、あるいは弱点、そういったものが段々際立って来ます。

そしてそのような事の始まりは、同じく魂の中の意志と言われてきたところの働きです。その意志が、いちばん霊から近いところに位置する魂の上位の働きです。そして意志から衝動や動機付けというのが生じます。思考作用というのは、意志のもう一方の側の働きとして生じています。思考から認知という事も出て来ています。

さて心の働きは一般にハートという事で、胸の辺りの心の動きというようにイメージして捉えられがちです。それはむしろ生理的な面からのものです。ところが心の元は胸の辺りよりも、脳の方に関連があります。それで脳との対応でいずれ見て行かねばなりません。

なぜなら魂というのはかなり体の中の脳との繋がりがあるからです。繋がりがあるとだけ言いました。脳や胸の辺りでの実感や感覚が、即、心の働きだと言うわけではないからです。と言いますのも、脳は心の働きや思考作用と関連性はありますが、脳が働きを起こしている訳ではないからです。

さて霊は完全に肉体から自由です。規定されていません。霊の構造はどうなっているかと言いますと、相対的な領域ではそれは無いという事ですから、捉えようがありません。相対的な領域で在るものは、たいして在るものではありません。本当に実在する訳ではない、頼りない在るというあり方です。

相対的に在るものは、絶対的に在ることは出来ません。相対的にしか在ることが出来ない程度だからです。それは依存関係において、かろうじて存続しているのみだからです。それに対して絶対界で実在するというのは、本当に在るという事であり、相互に支えて始めて成り立っていられるという性質を超えていきます。

だから条件や状況如何に関わりなく、常に在り続けられるのです。時間や空間の制約を超えているから、常に在ることが出来ます。現象世界はカルマの世界です。それで霊のあり方というのは、ただ在るということで在るというあり方です。それで常に在り続けられます。

在り続けられると言っても、いつからいつまで続くという意味ではなく、絶対的に続くという事です。時間の制約を受けていないという事です。大きさや規模も言えません。空間を超えているからです。空間的なあり方から自由で、規定を受けないから、規模や大きさや方向や形というものから免れています。勢い構造と言っても、霊の構造は規模も形も色も長さも無い訳ですから、相対的な側から言えぱ、はかりようがありません。しかしだから実在出来るという事です。

哲学が一体いつになったら、科学として扱えるようになる事でしょう。
次の質問どうぞ。

【質問4】
霊・魂・体の相互関連と関連のメカニズムについてお伺いいたします。霊・魂・体はそれぞれ、どのように相互関連しているのか。それぞれが、それぞれに働きかけるメカニズムというものはどのようになっているのか、お答え下さい。

【ソース】
これは一部すでにお答えしています。それらにいくつか付け加えましょう。既に述べた通り、霊が魂を造り出し、更に魂が肉体を造り出しているという関係性が互いにあり、また成立順序も神から霊、霊から魂、魂から肉体というふうになっています。つまり互いの関係は因果関係にあるという事です。そして上位から下位へというふうに、下りて来ているのが分かります。

さて、この上か下かというのは、科学的にどういうふうに見るべきでしょう。なぜなら私たち、並びにこのリーディングをする主体となっている者は、哲学的な捉え方になっており、科学的に捉えるというのに慣れていないからです。それで私たちも試行錯誤を繰り返しながら、多分に哲学的なこれまでの課題を、科学の方へと方向付けて行くかと思います。そのように捉えて下さい。

上位か下位かというのは哲学的な捉え方だったのですが、科学的にそれをどのように見なすかと言いますと、先ずその前に、その途中経過として哲学的に見ると、質的なことだというふうに言えるかと思います。また創造の順序の先か後かというふうにも言えます。それでさらに科学的な哲学というところから、哲学的な科学という方に移行させ、そして最後に純然たる科学というふうに持っていくように、どうか導いていくように努めて下さい。

それで段々その辺を見ていくのですが、先ず科学的に捉えれば、それらの辺りは、発生順序が先か後かというふうなところで捉えられるかと思います。また因果関係というところからも捉えられるでしょう。

さてこれまでの科学は、事実を解明するというところに、殆ど忙殺されてきているように伺えます。結果としての事実を科学するという事です。それに対して哲学の使命は、なぜそれが出来たのかというその経過を問います。それで意義というものや意味というものも、そこには当然問われるものに含まれて来るのです。

けれども科学の方では、少なくともこれまでの科学では、なぜそれが出来たのかとか、それが在る意義とか、そういう事は科学の対象にはして来なかったのです。これまでの科学はただ、事実がそうだからそうだという事で、それがどのようにして出来てきているのかというのさえあまり問わず、ましてそれの意義とか、価値とか、意味とかは科学の対象外だったのです。

結果を科学する、事実を問わず、ただ事実だから事実だというのから出発する、そしてその現象を検証しながら、その主に因果関係を明らかにしていくというだけだったのです。なぜでしょう。これまでの科学は、人間の生活の便利さに資すると言う、そのために科学が始まったという科学の歴史があるからです。

科学のために科学をしてきたのではなかったのです。人間の生活の便利さのために、先ず技術というのから始まりました。道具としてです。そして生活を便利にするために、事実の主に因果関係を明らかにするという事、そしてそれを応用していくというのに留まって来たので、あまり哲学というものがそこにはなく、それで地球環境問題というのが、ここまで深刻化して来ているのです。

それで、これからは技術のための科学ではなく、科学から始まって、そこから技術が出て来るというふうにすると良いでしょう。この機会に、このような時期に、時代にです。

霊・魂・体の相互のメカニズムと言いますのは、ちょうど科学と技術との関係のように、理論とその応用というのに近いと言えます。それが言いたかったのです。魂がなぜ在るか。それは霊の道具として造られたのです。体がなぜ在るか。魂の道具として、あるいは応用として造られたのです。

それで魂が科学なら、体はそのテクノロジーに対応します。さてこの対応関係は厳密ではありません。元々たとえというのは厳密ではないからです。ただ非常に象徴的には文字通り解釈するよりも、何か文字通りの解釈では伝えられないものを伝えられる場合が多いのです。そのようにご承知おき下さい。

後にもっとダイレクトに説明出来る時が来るかと思います。今はこの項目に関してはこれで通過する事にします。
次どうぞ。

【質問5】
ヒトとは何かという事についてお伺いしたいと思います。生命進化の一形態、あるいは生命進化の一プロセスとして、ヒトは、ヒト以前(これは動物ということだと思いますが)とヒト以後の存在と一体何が違うのかお答え下さい。特に霊・魂・体それぞれの次元において、ヒトをヒト以前及びヒト以後とから区別するものは何かをお答え下さい。

【ソース】
動物までの進化段階においては、霊というものが備わっておりません。ヒトから、初めて霊というものがそこに新たに加わって来ています。その辺のところを、宗教は象徴的な神話やたとえを持って文芸的に表現して来ています。それで例えば、キリスト教やその前のユダヤ教においては、ヒトは神によって創造されたというふうに言っているのです。

なぜ鉱物や植物や動物と同ように、ヒトが被造物の一種として、あるいは一部として創造された、と言わないのかというのはこの辺りに理由があるのです。ヒトだけが特別で、神のイメージに合わせて創造されたとわざわざ言うのは、ここに理由が在るのです。

広い意昧では、全て万物が神によって創造されたという事ですが、ヒトだけを特別に神の似姿で造られたというふうに言うのはこの事です。その意味でヒトは確かに特別だと言えるでしょう。

ところがそれを大分取り違えて、自分勝手な解釈を施して、人間優位の世界が造り出されました。それで自然がそのために使われる事になってしまったのです。そのような事を言っていた訳ではなかったのです。

さてヒトは霊を与えられました。それで初めてヒトに成れました。けれどもヒトはその霊を与えられて、それが機能し始めた時、働きとして霊が動き始めた時に、自我という実体として、ヒトは自らの霊を感知しました。存在そのものとして実感するよりも、その働きからして霊を自覚できたのです。それが自我です。具体的には私という自覚です。それが霊をヒトが自覚した時の特徴となっています。

それで霊は初め自我として働きを為してきた時に、エゴという形で出て来たのです。そしてそれはカルマを生み出しました。そして魂がそこで造られ始めました。動物までも魂は在ります。しかしヒトはここから魂がカルマによって彩られ、あるいは規定され始めたという事が言えます。

その分カルマを積極的に捉えるならば、魂を豊かにする道も拓かれるようになった、と積極的には言うことができます。魂のレベルで自我が動く時、それは主に愛情ということで感知されます。

さてヒトとヒトより上位の段階の生命との際は、ヒトは霊が与えられ、自我という働きとして、それを捉えられているけれども、その自我がまだ未完成であるというところがヒトです。自我がこのように与えられているけれども、未熟なうちをヒトと言うのです。それがヒトの定義です。

自我が一通り完成するとヒトではなくなります。そして次の段階へと進んで行けます。この自我が在り、しかし自我がまだ未完成なうち、この自我を育成するべく、生まれ変わりという特在の現象が、ただヒトにだけ起こり得るという事です。つまり生命進化のヒトという進化レベルの範囲の中で、その進化を促進する方法として、生まれ変わりという現象が見出されるという事です。

自我がなければ輪廻転生出来ません。自我が完成すれば輪廻転生する必要性が無くなります。自我があって、しかし自我が未完成なうち、生まれ変わりを通して自我を完成させようという動きが働いています。それで自我が完成すれば生まれ変わりが止み、ヒトを卒業できるわけです。

主にこのヒトの生まれ変わりを通しての生命進化のための場が、地球という惑星なのです。地球には他にいっぱい生命が生息してはいます。けれども今はこの観点から述べてみました。地球の存在理由や意義というのには他にもいっぱいあるはずですが、今はこの観点からのみ述べたという事です。

さて自我は未熟なうちはエゴイズムとして出、完成に近づいて来るにつれて愛という形で出ます。私という自覚が生じ始めたころは、自分を守り他を排除する、そして自分を成立させる、という形で自我が表れるのが特徴です。

それに対して、そういう事ではいけないということで、段々自他の間の一体性の摂理に気付かされるようになり、そのためにカルマの法則が作用を及ぼすのですが、それを通して次第に自我が育成され、エゴが愛という形で出て、無条件の愛というところに至って自我が完成したとなり、ヒトである必要がなくなり生まれ変わらなくなります。

生まれ変わる生命体、それをヒトと言います。生まれ変わらない生命体、それはもはやヒトとは呼ばず、またヒトの形態をも帯びてはいません。自我が加わると霊が変わり、自我が働くようになるとヒトの形態を取る事がはじめて出来るのです。しかしヒトを見て、ヒトとしてあるうちは、自我は在るけれども、まだ自我は未完成だという事を、そこに見て取りましよう。

この質問に関しては、今はここまでとします。同時にこのリーディングもここで終了致します。

リサーチ・プロジェクト(第2NSプロジェクト:その1)
1996.10.12

2010年10月10日

今世生まれてきた目的と使命は?

リーディングNo.7754



質問1  
前世においてのカルマを通して、どの様な心で今世生まれてきたのか。その目的と使命を教えて下さい。 

【 ソース 】 
あなたのところの家族は4人ともマイペースの魂達の集まりです。それぞれが自立しており、その上で、家族としての纏まりを成しています。あなたもその一人です。そのような意味ではお互い、分かり合えるところがあります。自分と違うタイプの人、経歴の人、立場の人のことは、人は中々分からないものです。それに対して、自分と色んな点で似通っている人のことは、分かったり、感じたり、認めたり、受け入れたりしやすいものです。あなた方家族はそのような集まりとして、構成されています。

あなたは自分と似たような性質を持つ、あるいは、意向を持つ、魂達を引き寄せ、自分の願いである、家族を構成することを実現させました。それがあなたの今世の目的です。

あなたは前向きで、積極的、活動的な人です。前世から一本気で、正直で、素直で大らかな人でした。裏表がなく、自分の心の中で工作したり、目論んだりすることが殆どありません。子供のように単純で、自分の中のものを、そのまま外に表し、思ったら行動する、といったように複雑な面がなく、そのままです。自分らしさを周りの人に示してきています。あなた自身としては、別に示しているつもりもないのですが、結果的にそうなっているのです。

それゆえ、今世の使命は、一人一人に対し、出会っていく人達に対して、人にとって自分らしさはいかに大事なことであるかを、身を持って生きた実例として示していくことにあります。

人は他の動物と異なり、口で喋ることができます。言葉による伝達、コミュニケーションです。でもやはり、人間も動物の延長で進化してきていますので、人間の中身の6割は動物なのです。従って、人と人とのコミュニケーションの場合でも、人間の部分の4割は言葉によるやり取りでコミュニケーションをしますが、自分の中の残り6割は、動物の部分を残していますので、人と人とのコミュニケーションの場合でも、6割方は言葉以外の本能的な部分でのやり取りになります。人間がコミュニケーションに限らず、生きていくに際して言葉による理解や学びなど、言葉から受ける影響力は、自分に対しても他者に対しても4割程度です。

例えば、物事が起きてきたり、体験する。自分で感じて判断する、行動するなどのプロセスを見てみましょう。それらは言葉を使った部分は4割程度です。言葉を介在せずに感じて、咄嗟に行動することは多いのです。それで例えば、状況を自分で判断したり、人が人を判断したりして、その上で自分もアクションを起こす、行動します。ですからあなたが言葉で人に説明したり、分からせようとして、人に影響を与えている部分は3~4割程度です。実際は、あなたが人に及ぼしている影響、人と人との関わりの相互影響の多くは、言葉以前の行動や動きだということです。

つまり、言わんとすることは、言葉で喋るよりも、身体で喋る部分の方が大きな比重を占めているのが、人間だということです。ですから、人が人を理解したり、判断する時は相手の言ってくる言葉の内容を聞いて判断したり、理解している部分よりも、相手の動作や態度、日頃の行動などで判断したり、その人を理解しようとする比重の方が大きいということです。

人間にとって言葉は大事な媒介手段です。しかし、それ以上に人は行動で喋ります。ですから、あなたが身を持って自分を示しているというのは、口の言葉で喋っていなくても、「私はこう思っていますよ。私の信念はこういうことで、ほら、それがこのような行動として現れているのですよ。自分でもそれを意図して、このように動いているのですよ。それが私の表明です。皆さんも私の動きによって、私を分かってもらえるでしょう。私の方でもほら、このような動きを通して人生に於いて、何がいかに大事かを行動という喋りで示して教えようとしていますよ。それに気付いて下さいね」。これがあなたの使命です。

人はその動作や行動で人に何か大事な意思表示をして、他の人を教育しているのです。本人は別に分からせようとか、まして、人を教育しようなどというつもりは殆どありません。でも、表面の意識の奥にある深層意識で、相手の動きや行動や反応をキャッチして、人は人から学べます。影響も受けているのです。

それに対して、その人が喋っている部分はあまり聞いていません。そのようなところが人間にはあります。そしてそれがあなたの独自性なのです。つまり、以上は一般的な説明のように聞こえたかもしれませんが、取り分け、あなたの場合は、こういった色彩が濃厚でこれに気付き着目することによって、自分の独自性を自分で見破り、自分を目一杯活かし、開花させていくことがどうやら自分の場合はできるということらしい、ということに思いいたります。

あなたは実行の人なので、特に自分の思いが行動で表現されています。また、あなたは既にお伝えしましたように、正直者ですので、行動で端的に喋っています。あなたの周りの人達も「ああ、この人はこういう人で、こういうつもりで行動しているんだな。こういうことを伝えていきたいんだな」ということがあなたの動きで、また対処の仕方で、はっきり分かります。

あなたは本心を隠したり、工作して、違った形で動いたりすることが殆どありません。控えるということも少ないのです。でも、その分、例えば、自分の子供が自分を表現しないとよく分からないようです。自分に、そのような部分が少ないので。あなたは単純に自分がこうだから、人も多分こうであろうと捉える節が強いようです。

また、あなたの特徴は人は自分と同じようであって欲しいとも、どこかで期待しているのです。それであなたは自分と同じようなタイプの人に対しては、非常に喜び、安心し、共鳴し、分かり合えたと感じ取ります。これがあなたの特徴です。

あなたは単純でストレートです。それで自分と違うようなタイプはよく分からないし、不安になります。自分と同じようであって欲しいと思います。あなたが大切にしているのは、お互いの繋がりです、連帯意識です。自分が感じたことは相手も感じている。私が分かったことは相手も分かっている。情報を共有している。感情も共有している。価値観と歩んでいく方向もほぼ同じである。そのような時、あなたはとても安心納得し、これが愛だと思います。そのようにあなたは、思うのです。でも、世の中を見ると、必ずしもそうではないのですよ。

例えば、学校の授業で30人の児童達が教室の真ん中に花瓶を置き、花をさして、それを30人の子供達が描いたとしましょう。同じ絵を描いても、びっくりするぐらい、皆違って描きますね。

先ず、描くタッチが違うし、それから子供達が座った位置で同じ花でも見える面が、角度で違ってきます。また、背の高い子、小さい子によって、上の方から描くか、下の方から描くかでも微妙に違いが出ます。これは人生を象徴しています。同じ人間に対し、同じ状況に対し、同じ出来事に対し、人が皆同じ様に捉え、感じ、体験しているとは思わないことです。

あなたは“違う”ということは嫌だし、違うということがよく分かりません。皆同じだと思っているし、同じであって欲しいと願っているのです。

今世のあなたは、その連帯意識、同一性を大切にし、それを周りに示していくと共に、あなた自身の留意点としては、「人はそれぞれ違うものなんだ、同じ物や人、同じ出来事を見ても、皆違うことを言うし、違って捉えているんだ。そしてそれで良いんだ。お互いに学び合えるし、豊かにし合えるのだから」。このようなところに達すること。それがあなたの今世の目標です。

その為、結婚した相手の人とはかなり、タイプや方向が似通っていましたが、少し彼の方が別の方にも意識を向け始めると、不安になり、悲しく感じました。あなたはそのようなことへの対応が苦手なのです。

また、チャレンジとして二人の間に出てきた、子供達は、本筋はあなたや夫に似ているのですが、少し現われ方として、例えば母親のあなたのようには、自分を表現しない。何故だろう、とあなたを動揺させます。寂しくさせます。それはあなたの今世の気付くべき点、取り入れるべき点を子供が指し示しているのです。子供を通して神が指し示してこられているのです。

あなたは一丸となって前世から何かに取り組む時、とても意欲的で、元気でした。でも、ちょっと応用問題で捻られると、途端に分からなくなり、対応が困難になりました。

今世では、変化に強い人を目指しましょう。多少、変更や修正があっても、自分をそれに合わせて変えていく、捉え方を変える、見方を変える。時には価値観を変える。好みさえ変える。当然、やり方も変える。そのようなことが出来るようになりますように。あなたの奥深い意識の中を翻訳してこのように言いました。

でも、あなたの良さは素晴らしいものがあるのです。素直で、そのままを出せる人です。あなたは勇気と思いやりと実行の人です。それはとてもかけがえの無い尊い資質です。今の時代、状況の中で失われつつある資質です。

あなたは自分の生き様を通して、周りに喋っています。メッセージを伝えています。「忘れてはいませんか、このような面を。はい、私がそれです。私はそれを出しています。どうかこのような面を皆さん方も思い出して、自分の中でそれを認め、育て、発揮して下さいよ」。あなたからのメッセージはこれです。

同時にあなたの側としては、他の人達から、それぞれの人の事情を酌んであげて、なるほどと分かってあげ、それを受け止めて、相手に応じて合わせていってあげる。そのようなことができると、あなたは色々な人のことが分かって、心がバラエティーに富みます。

質問2  
夫(19**年**月**日生まれ)Aと今世夫婦として出会った目的、また今後夫婦としてどのような関係を築いていったらよろしいでしょうか、お教え下さい。 

【 ソース 】 
我儘で、子供っぽい人です。妻のあなたに甘えています。自由奔放です。あまり、他の人のことを考慮にいれられません。それで良いと思っている節があります。ただ、悪気は無く、自分の気持ちに良くも悪くも正直な人です。その辺はあなたに似ています。同じ者同士が人生の歩みの途上、出会って、お互いに分かり合えて、結ばれた関係です。しかし、二人ともそのような歩み方がどこかに残っている為、特に男性である彼の方は、未だにそれが止まず、その生き方を以前の延長として結婚した後も続けています。

あなたは単純に、彼と出会って結婚したので、家庭の方に特に子供の方に愛を向け始めました。しかし、彼の方は、家庭や子供に向けるということをさほどせずに、ちょうど結婚前にあなたと出会うのを求めるような生き方をそのまま、結婚した後でも続けています。

彼の課題は、あなたと同じように、家庭に対して愛情の責任を感じ、それを果たしていくことです。

例えば、あなたと言う妻の気持ちを感じ取って、自分の行動に責任を取っていくことが彼には必要です。同時に、あなたの方は、もし、この自分が女性ではなく男性だったとしたら、彼のように生きたかもしれない、と思い始めます。立場を置き換えて想定してみる。そこで成長が始まり、相手を理解でき、感じ取れて、エネルギーが交換され、カルマが解消して、しっくりいくようになります。

それは必ずや、相手の心にも静かながら衝撃を与えます。そうすると、相手の中に内なる良心が目覚め、相手に対してすまなかったという、思いが湧いてきて、行動にブレーキがかかり始めます。

あなたにも出来ることがあるということです。あなたは彼の前で無力なのではありません。お互いに共感し合える部分と、ちょうど鉄道の線路のように、どこまで行っても交わらず、平行路線のまま行ってしまう所との両方があるのです。線路はあくまで自分を押し通し貫いている為、交わりようがありません。距離さえ近づきません。遠ざかりもしませんが。それが自分を固く保ち、自分はあくまで自分であり、相手は相手でしかありえない、と言う捉え方やスタンスです。それでは成長も改善も解決も見込まれません。そうではなく、自分を他人として見ること、他人を自分として見ること。それによって交差し始めます。それが愛です。柔軟性です。心の豊かさです。

先ず、あなたからそのことを行い始めましょう。あなたは既にそれを行い始めているのです。それがこの1~2年のあなたの成果です。あなたはそのようになってきています。柔軟になって成長してきているのです。その甲斐あって少しづつ良い影響が及び、事態も改善に向かっています。

何か人間関係で難しくなった時、人は相手に問題があると見なし、相手に変わることを要求します。相手が変わらない内は、改善はしないと言うわけです。しかし、それは難しいのです。相手と過去とは変えられません。でも、自分と未来とは変えられます。未来を変えるのは現状からです。それで、何かあった時に、たとえ相手に問題がある、原因がある場合でも、相手を変えようとしたり、それを期待するのではなく、自分を変える。それによって相手に衝撃を加えます。結果的には相手は柔らかくなり、上手くいくようになるのです。たとえ、相手が変わらないままであっても、相手との関係は変わります。それで十分なのです。自分を変えることによってしか相手との関係は変えられません。

あなたはこのように自分の頑固さを彼を通して学ばせられ、訓練を受けるように神によって仕向けられています。あなたがそのように取り組むことで、それは彼の成長をも助けることになるに違いないのです。

そしたら一段成長した高みに上り、そこでこれまでよりもっとより良い関係性が待ち受けていることでしょう。そしてそれが子供達にも及んでいくようにもなります。それが子供達への最上の教育法です。あなたは既にその流れに乗り始めているのです。このリーディングの機会を作り出したのも、他ならぬあなたですから。求める者は与えられます。これからも求め続けましょう。

質問3  
長男(19**年**月**日生まれ)Bは私の目から見て、何を考えているかわからず、時より戸惑いを覚えます。母親としてどのような心で接していく必要があるのか。また、私が長男を通して学ぶべき事があればお教え下さい。また、将来性もあわせてお教え下さい。 

【 ソース 】 
あなたは余りまだ、気付いていないかも知れませんが、上の子と下の子とでは、そっくりなのです。あなたは二人の子供は対照的な性格だと捉えているようです。

次のように言いましょう。二人はそっくりです。現われ方だけが対照的になっています。あなたは凄く単純に捉える人なので、現われ出ている所だけを見て、随分違った性格の兄弟だなと思っているようです。本は殆ど同じで、現われ方だけが違ってるのに。それを先ず理解しましょう。

では何故、現われ方がこうも兄弟で違って出ているのでしょう。それは長男と次男の違いです。一度長男が次男であり、次男が長男として先に生まれてきたとしたならと、頭の中で想定して見て下さい。恐らく長男は次男のように振る舞い、次男は長男のように振舞っていることでしょう。この世に出てくる順番が代わっただけで。

人間は多分に環境の産物です。特に兄弟、姉妹はそうなのです。これもあなたの学びの一部です。ということは、自分がこのようなことを分かってあげて、長男の立場、次男の立場を理解し、考慮に入れてあげながら、長男は自分を生きておらず、立場と役柄を演じているのだという理解に達することでしょう。

そうすると、彼の本心、彼の素地をあなたは感じ取り、それを受け入れ始めます。これにより、彼の心が「自分はお母さんにやっと分かってもらえた」と安心し心を開き、自分を現わし出すことでしょう。演じているものがその人とは限らないのですよ。あなたは演じているものをその人と捉える傾向が強いようですね。自分がそうだからです。あなたは演じませんね。そのままを出すだけの人ですから。だから、分かりません。

長男に出てくるメリットとデメリットと、両方あります。本当はこのように良い悪いとは分けられませんが、分かりやすくこのようにしているだけです。説明として。長男として出てきた辛い立場は、責任があり、愛が下の子に移っていくことです。親の愛が次に生まれた子に移ります。自分はしっかりしなければと思い始めます。それで我儘できなくなります。したかったのに。そのような辛い立場や自分を抑えている部分を感じ取ってあげましょう。そこで母と長男の間にエネルギーの交換がなされ、彼の心が解けていきます。

そしたら、彼は安心し、「そんなに長男を演じなくてもいいんだな、少なくともお母さんの前ではそれをしなくてよくなったんだな」と、安心し、自分の心を開いて、本心を出してくれるようになることでしょう。長男も中々辛い立場なのです。

彼は前世から絵を描いたり、物を組み立てたり、設計図を描いたりしてきました。また、楽器を作ったり、機械いじりをしてきました。でも、自然にも親しむ時もあって、植物栽培をしていた時もありました。技術系に適しており、研究者タイプです。工学系に将来進むか、もし、文科系に進んだ場合でも、人文科学の研究や探究に向かっていく感じです。

あるいは、文字通りそのような形で出なくても、必ず仕事に就く場合、そのような性質を帯びたことを結局は果たしていくようになるのでしょう。彼の探究心旺盛な面と先を見越す能力、そして、人に甘えずしっかり取り組んでいく面を評価し、サポートしていってあげましょう。

質問4  
次男(19**年**月**日生まれ)Cは私の目から見て放っておいても自分なりに生きていく感じがしております。母親としてどのような心で接していく必要があるのか、また、私が次男を通して学ぶべき事があればお教え下さい。また、将来性もあわせてお教え下さい。 

【 ソース 】 
この兄弟は前世に於いても、何遍も何遍も兄弟として転生してきています。ただ、面白いのは兄と弟が交代々々で出てきている点です。だからこそ、先ほどのような喩えをお話したのです。「長男が次男として出てきたら、次男が長男と出てきたら、全く現われ方は逆になっていたでしょうに」と述べたのです。実際そのようなことが過去に何遍もあった兄弟だからです。

その意味で二人とも演ずるのが上手な所があります。演じている部分と本人の本心とは異なる場合がある、ということです。それは、嘘をついているということとは違うのです。役割を果たしているということに近いのです。

自分の心に正直に生きる尊さがあります。例えばあなたのように。同時に一方で、「自分を保留にしつつ、役目優先、立場優先、状況優先、必要性優先で応ずる、演ずる、ということで、知らず知らず自分のカルマが解消し、成長でき、役目を通して、社会にお役に立てる」という面もあるのです。

どうやらこの兄弟はそのような部分を、親のあなたに教えようとしているかのようで、取り分け、次男は母親のあなたにそれに気付くようにと示しています。本人の表面の意識は、そのようなつもりはよもやありません。ただ彼の奥深い意識は、それが分かって行っているし、先ずもって、神がその子を通して、母親のあなたにそのことに気付くようにされています。

このように役柄を演ずる、例えば、次男の立場を演ずる、と言うのは、ある意味重要なことなのです。何故なら、神様からポジションや役柄は与えられます。自分を忘れる位、立場や役目に忠実に徹する時にこそ、自分の性格がきょうせい矯正され、カルマは解消へと向かい、成長でき、魂が丸みを帯び、より完全になっていくからです。また、役目に徹することで社会に貢献でき、周りとの秩序も保たれます。「そのようなことが、世の中では大事なことですよ」と行動でもって、母親のあなたに喋っています。メッセージを伝えています。

一方、母親のあなたは親として、「それもそうだけれども、私のように素直に自分の心で生き、それをそのまま行動で表明していくこともまた、真実なのよ」と、あなたはその子に言いたげであるかのようです。それも大切なことなのです。

このように母と息子とで学び合って、バランスを取り合っているのです。それが神のねら狙いです。勿論、細かく見れば他の色々なことも関与してはいます。ただ大筋としては、このようなことがあるということです。

さて、その子の将来性に焦点を当ててみると、教育関係に向かうか、或いは、研究開発など最先端の技術産業に向かうかの、どちらかでしょう。兄の方がどちらかと言うと、伝統的な、あるいは保守的な研究や技術の面で働きます。

それに対し、弟の方はもっと最先端の部門で働くのでしょう。改革好きです。変えていくのが好きです。色々なことに興味を持つでしょう。人との関わりも好むでしょう。

ただ思春期になると、14歳から16~7歳にかけて、この子は今の明るさが一時失せるでしょう。否定的で批判的な心が芽生えるでしょう。しかし、その時に母親としてあわ慌てふためいてはいけません。子供の心が様変わりしたのではないのです。成長の過渡的な一形態を通り抜けていくだけです。そこで、母親が疑わず、たじろがず、一貫した心で、受け止め続け、見守ってあげることで、その途中のプロセスを安全に、彼は通り抜けて行き、そこで大人になっていきます。そうしたら、社会に役立つ、素晴らしい知性を発揮し、また、人を信頼でき、人の心を大切にできる人間として生きていけるようになることでしょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

<了>

何故このような病気になったのでしょう?




リーディングNo.6486


質問1  
私は、何故このような病気(身体)になったのか、私のカルマについてお教えください。またこのことから何を学び、今後どのように進めば良いのか、お教えください。 

ソース  
あなたは前世で霊的・精神的なことを重んじていました。それ自体は良いことなのですが、しかしその分、この世的・現実的・実際的、そして物理的なことに関しては疎かになっていました。それは自分自身に関しても当てはまることです。つまり自分の中の霊と精神、それに対する肉体との関わりです。自分自身に関しての地上的・物理的なこと、実際的なところといえば肉体です。

また人間の体というのは、とても象徴的に出来ています。周りに起きてくる出来事も象徴的に起きてくるのですが、自分の体に関してもそのことが当てはまります。それで例えば足とか腰、さらには股関節のところは、どういう意味合いかと言いますと、現実的になる、行動的になる、実際的になることを教えてくれています。

それでもし股関節のところに異常が発生したとしたならば自分の中で実際的・行動的な面、この世的な応用面においての基礎があまり出来ていないことの反映です。表れです。自分の中にそのような弱点がカルマとして顕れ出てきて見せてくれているのです。そのようにして自分自身に教えてきてくれているのです。

偶然起きる事はこの世の中にはありません。必ず然るべき理由や根拠、あるいは意図があってのことです。それは自分自身の体に関しても同じことが当てはまります。したがって起きてくる事柄や状態、症状などによって読み解けるのです。解読できるのです。意味や意図が。

そのようにして学び取り、その方向で改善したり留意する。その方向で対処していったり関わっていく。その中で自分の元にある弱点や欠点や悪習慣や癖が補われたり改められていく。そのようにして成長していく。そのような意味合いや意図があるのです。

それで人間は現実に実際に起きてきている事柄、出来事とか状況、状態に向き合い、そのことを検討して、そのことから学べること、学んだほうがよいことに気づいて、それを学習し習得できるように努力したり工夫する、あるいは調整する。そのような取り組みの中で自分が成長を遂げ、欠点が補われていく、傾向が是正されていく。そのような導きとして情況なり状態があるとさえ言える程です。そのように宇宙が仕組まれているのです。

したがってどんな事が起きた場合でも、特に不都合が生じた場合などは、〝何ゆえこの事が起きてきているのか、この事から私は何を学ぶ必要があると言われているのか。どのように捉え、どのように対処していくとよいということなのだろう〟。そのように探りを入れて出来事や状況から学ぶ。その取り組みの中で元にある欠点や問題が是正、解決されていく、そして成長を遂げていく。それが起きてくる出来事や状態の意図です。

そのようにして出来事や状態と取り組む中で自分が成長を遂げ、元にある原因となっているカルマや自分の弱点や欠点が埋め合わされていく、浄められていく。そのようなことです。つまり問題となっている状態とか起きてくる出来事というのは教材・テキストです。体験学習をこの世で行う際の。その為に生まれ変わってきたのです。

世の中の人を見てみてください。誰でも必ずといってよい程どこかには問題や欠点、悩みを抱えて生きているものです。一見すると幸せだけで問題が無く見えたり、人格が出来ていて良い人に見えたりしていても必ずどこかに悩みとか人間的な問題とか欠点が誰にでもあるものです。そのような人はそこにカルマが顕れていて、その人の弱点を表します。そしてそれを神様が示してくださっているのです。

それによって本人が気づいて、それに取り組みながら自分を改め、成長を遂げていく題材として使う。悩む為、落ち込む為にそれを障害物とするのではなくて、逆にそのことを通して成長を遂げる良いきっかけに用いてしまう。前向きに捉える。そのことを嫌なことと見做さず自分が成長する糧としていく。そのことを通して成長を遂げ、元にある欠点や弱点を補っていくように自分を仕向けていく。そうすると、内面的な魂がそのことを通して成長を遂げられるわけです。

人はそもそも何故生まれてきたのでしょう。前世からのカルマを果たし、さらにカルマを超えて成長を遂げ、神様に還っていく道を辿る為に生まれ変わってきているのです。

あなたの場合の自分を高め、磨き、向上させる題材は、例えば象徴的に右足の股関節のところにそのような徴として表れています。それはあなたの魂の弱点をそのまま映し出しています。

何故でしょう。そもそも、肉体といいますのは自分自身ではなく、自分が作り出したものです。自分の魂が作者、肉体はその作品です。作品を見れば、その作者の人となりや作った意図が推し量られるものです。この作品はどんな作者が作ったのだろう。それは作品を見れば大体推測できるものです。それとちょうど同じように肉体を見ればその人の本体、その人自身である魂の在り様、弱点、優れたところがそのまま反映しているので推し量られます。魂が作った乗り物なのです。肉体は。

あなたは肉体ではありません。肉体はあなたが作ったものです。あなたの本体が宿る乗り物です。偶然そのように出来るということは有りそうにもないことです。やはりそこに弱点を作り出してしまうような、魂自体にそのような欠陥とか、まだ充分でないところがあるからなのです。

あなた自身の魂という原因のところを見て点検し、魂を育成したり、向上させたり、バランス化させることに取り組むこと、そのようにして段々これからはより完全な肉体を自分の本体が作り出せるようになっていきます。

肉体は一度作ったら変わらないように見えますけれども、そうでもなくて、瞬間瞬間、細胞は死に、そして新しい細胞に生まれ変わっています。再製造です。七年で肉体の細胞は全部入れ替わります。それゆえあなたがこれから魂を磨き、向上させることに、そのことを題材にして取り組むならば、段々により完全で健康的で丈夫な肉体を再創造していき、少しずつ健康で元気な体になれます。それは今からでも遅くはありません。いつかはそのように、そのことをきっかけにしていくとよいのです。

それとあなたの場合、自分で自分を責めたり、傷めたりするところがあります。それゆえあなたの学びとして自分に優しく接してあげること、自分のことをケアーしてあげること、自分で自分のことを認め、愛し、受け入れてあげること、そのようなことも必要です。そのような教訓もそのことには込められています。

現実的・物理的なこと、実際的なことを重んじること、同時に一方、自分に無理を掛け過ぎないこと、自分で自分を評価してあげること、自分で自分を認め、受け入れてあげること、自分を愛し、自分に優しく接し、自分との折り合いをつけ、自分を労り、思いやりながら自分とよりよい関係を形成して生きていくこと。それらもそのことから教えられていることです。

そのことをあまりしていないので、して来なかったので、それがあなたのカルマとなり、そのような肉体を作り出してしまっているのです。その意味でそのような状態は警告です。体さんは叫んでいるのです。〝もっと何とかしてくださいよ〟と、あなたの本体(霊魂)に訴え掛けているのです。体のほうが。

また右側に出ているということは、脳で言えば左側に対応します。交差しているので体の右半身は左脳が司り、一方、体の左半身は右脳が司ります。右側に出ているというのは左脳のほうに何か問題があることを表しています。脳自体に問題があるということではなくて、左脳が担当している機能・働きの面で、あなたの心に気づくべきことがあるという意味です。

右脳はイメージ脳、アナログの面です。それに対して左の脳はデジタル、論理的・実際的・現実的・物理的なほうです。論理的で分析する理性や知性の面、デジタルの面、現実的な面、この世的な面、それらを左の脳が司っています。あるいは社会的な面、建て前の部分です。右脳は本音です。

それで左の脳が司る右側の体の部分にそのように出てきているというのは、あなたの理性や論理、現実的・社会的な面で、どこかまだ足りないところがあったり軽んじているか、そのような現実的なことを。あるいは逆にその方面で無理を自分に掛け過ぎているか、そのいずれかです。

あなたの場合はその両方があります。つまり現実的・実際的なことや自分の論理や理性とあなた自身とが噛み合っていない、無理があるのです。それが体の右側にそのような形で反映してきています。

ここで一方、霊障ということも考えられます。それはあなたばかりでなく家族4人とも何等かの形で体の足のところにそのような徴が表れているからです。しかも体質とかで先天的に出ているというよりも、むしろ特にお父さんとか弟さんは後天的に事故とか怪我によって出てきているというのは単なる体質とか傾向によるということだけでは説明し切れないものがあります。お母さんもびっこを引かれたり、やはり足がお悪いということです。これは偶然とはとても言い切れません。

体質の遺伝ということならある程度わかるのですが、別々の原因やきっかけで家族4人ともそのように結果的になってしまっているというのは、やはり別のカルマというのが考えられます。今直ぐ断定することはできませんが、何か家系的にご先祖さんが他の人の足に関わることでカルマを作ったということがありそうなことです。それが絶対あったとまでは言いません。でも何か、そのようなものもにおいます。

その意味で先祖供養や罪障消滅、祈りなどを行うことをお勧めします。あまりに宗教的になることは勧めませんし、先祖供養とか罪障消滅の為に何十万も何百万円も掛けたり、お墓を造り替えるとか、そのようなことは特に勧めません。霊障とか、ご先祖さまの因縁とか罪に原因があって、家族が皆そのようになってきていると言いますと、それに拒否反応を示すか、あるいはそれを怖れ、信じて、ある人たちはその為に何百万もつぎ込むとか、どうもこのようなことになりますと人間は極端に出やすくなりがちです。しかし、それは好ましくありません。

ただそれにしましても、そのような話は全く荒唐無稽ではなくて、ある場合は確かにそのようなことはあるのです。あなたの場合もあるような感じです。その意味で念の為、ご供養とか祈りは念入りに行うことをお勧めします。良心的に信頼のおけるところで。それ程お金が掛からないで出来ることをお勧めします。

この事をあまりに重大視して、怖れてのめり込むことはお勧めしません。基本的には先ほどまで詳しくお伝えしたような趣旨が本筋ですので、自分自身が体のことを通して魂を磨いたり成長させる。そして体を労ってあげる。そして元気良く明るく安心して生きていくというのが本筋ですから。

あまりに心配したり、〝こういうことがあったからこうなんだ〟ということには引っ掛からないようにしてください。今後とも。

質問2  
私の前世及び、私は何の為に生まれてきたのかお教えください。 

ソース  
あなたは前世で霊的・精神的なことに関心を寄せ、惹かれてきた人です。とても頑張る生真面目な人でした。でもおおらかで優しい思いやりに満ちた面、穏やかな面、静寂を湛えている面もあった人でした。なかなか大人しいながらも賢く、しかし神経質で強情で極端な面もあった人です。

古代のエジプト、イスラエル、ギリシャ、イギリス、中国、日本と生まれ変わってきています。フランスからイタリアにかけての地域での転生も見られます。アトランティスにもかつて生きていました。
大抵静かで我慢強く、賢くて温和な人でした。生きるのはあまり上手ではなかったようです。でも一生懸命頑張って生きてきた人です。

豊臣秀吉から徳川家康にかけての時代に生きていました。家で商売を営んでいて、あなたも手伝っていました。あなたは静かでしたが、なかなか勝ち気な面もありました。現実に適応するのが少々困難なところがありました。でも頑張って行っている人でした。少々無理をするぐらい行うところがありました。

古代の日本、紀元4世紀の頃にも生きていました。布を作ったり、ものを書く為の用紙、紙を作ったりしていました。それを手作業で行いました。真面目にこつこつと努めていました。より完全に出来るように意識を傾注していました。

日本の中世の時代には旅行をしたり行脚していました。その時代の前世で歩き過ぎたことがあったようです。自分の体を労ることが当時から必要な学びです。何でも行き過ぎますと支障を来します。またその人生では、お客さんをもてなしたり楽しませたり、奉仕的に働いていました。

古代のエジプトでは地位や権力のある人の言うことを聞き、命令に従い、その指示を待って必要なことを行いました。あなたの中に恐怖心が作り出されました。また素直で従順な面も作り出されました。モーセの頃のエジプトです。

ギリシャにおける前世では針仕事をしていました。織物業を営んでいました。また筆記をして書記、記録係りを務めてもいました。他に治療にも興味を持っていました。

イスラエルにおける前世では自然が好きで、動物や土、水、空気、風、植物などに惹かれました。なかなかのロマンティストで神様を信じていました。しかし現実と少々遊離しているところがある人でした。精妙な心の持ち主でした。

中国の前世は忍耐が多く、与えられた作業をこなすので精一杯で、体がしんどい時もありました。

フランスからスイスにかけての前世では絵を描くのが好きでした。また魚とか生き物も好きでした。

イギリスの前世では文学や小説が好きでした。ロマンティックな人でした。大人しい人でした。自分を押さえる傾向がありました。その時も現実と少々遊離しているところがありました。

前世のあなたを見てみますと非常に自分の体を酷使し、我慢し、無理をしていた時と、ロマンティストで現実離れして、実際的面が稀薄だった時との両方を体験してきているのがわかりました。

今生の目的は調和とバランスを学び、現実と適合しながら自分にも優しく接し、自分のライフスタイルを確立し、人生を明るく、肯定的な展望を以て眺め、自分の良さを思いやりと共に発揮していくことにあることがわかりました。

質問3  
私にはどのような職業が向いているのか、お教えください。 

ソース  
将来的にはあなた自身思い描いているように治療などの資格を取得し、マッサージとか何か奉仕的に人の健康の為に役立つことをしてあげることが良さそうです。

やはり人間というのは自分の体験から学ぶことが多いもので、それによって似たような人たちの悩みとか課題がよくわかり、その助けになってあげられるものです。その意味であなたは人の何倍もそのような方面で苦労したり、知恵をつけてきたりしているのです。

それをベースに腕を磨き、資格を取得して自分のペースでライフワークとして治療の方面で、自分との折り合いをつけながら他の人の希望と健康をもたらすことが使命と言えます。

リハビリを欠かさないようにしてください。昼間と夜と両方、仕事をすることはあまり勧められませんが、現状からして経済的に止むを得ないのなら致し方ありません。出来るだけ負担が掛からないように、自分の体も労りながら取り組んでいきましょう。

心と体のケアーをしていくことに適性と役割がある人です。

質問4  
幸せな人生を送る為に、私はこれから何に気をつけていけばよいのか、気を付けなければならない点をお教えください。 

ソース  
自分の直感を信じましょう。それは盲信ということとは違います。自分の中に〝こうだ〟と思っていることの中には思い込みとか取り違えも含まれてはいます。偏りと傾向性も。それでも尚、自分の中の気持ちとか感覚、特に表面の感覚と言うよりもっと奥深いところに根差す感覚です。そこには一貫性があり、静かで穏やかです。単なる我がままとか思い込みとは異なるものです。それは周りとも調和し、全体の役に立ちます。自分自身も含めて。そして自分自身の内なる良心も、それを認め、尊重できるような内容です。

あなたにはそのような精神や感覚があります。それを大切にしていくのです。つまり自分の中で〝こうするといいと思う。こういう点には留意したほうがいいと思う。これはしないほうがいいと思う〟などといった内なる声、響き、感覚のようなものが出てきたならば、それを尊重し、現実と突き合わせながら出来るだけそれを採用し、その方向で行ったり、あるいは行わないほうがいいという響きが来たら行わないようにするということで、出来るだけ内なる感覚と声を採用し、それに従うことです。これが単なる我がままとか誤魔化しでないことはおわかりでしょう。

現実に合わせていく、調和するということは大事です。しかしそれが単に周りに気を使い過ぎるあまり、合わせていたり、自分が我慢しているだけですと無理があり、いずれ支障を来します。やはり自分と対話し、〝どうしたらよいのか〟と問うて、自分の本質に従う。その為には自分の内なる感覚に目を留め、それを信じられることが必要です。謙虚でありつつも自分を信じ、自分に自信を持つのです。そして自分の過去の経緯、体験を認めてあげるのです。

自分のユニークさを愛しましょう。自分でそれを認めてあげましょう。人と必ずしも同じである必要はありません。人のことも認めねばなりません。そして尊重し、仲良く調和してやっていくことが必要です。でも何でもかんでも人に合わせたり、人と同じように自分がなる必要はありません。人が体験してきたようなことを体験していかなくても構いません。一方、人が体験してこなかったのに自分が体験してきたことは自分で認めてあげましょう。何らかの意味や理由、必要性があったからです。

一方ではもちろん、反省も必要です。しかし自分を責め過ぎることはしないことです。しないほうが良いのです。穏やかに優しく生きていきましょう。自分の場合はどのようにするとよいのか、その観点から考え、行動し、決断します。

自分なりの幸せや生き方を作りだしていきましょう。夢を大切にしましょう。一日一日を穏やかに精一杯生きましょう。自分の中の良い感じのニュアンスを大切にして生きていきましょう。過去から学び、留意点を自分の中で見付けましょう。そしてそれに従って生きていきましょう。自分で納得のいく自分らしい生き方で充分です。そして人を認め、人とも調和して生きていきましょう。

リーディングを終了します。

(ありがとうございました)

<了>