2011年2月7日

生まれ変わりの仕組みと、死から次の誕生に至るまでの中間生について

リサーチ・リーディング No.1875

前回に引き続き生まれ変わりの仕組みについてお伺い致します。ヒトが一つの人生を終えて、次の人生を始めるまでを、中間生という風に定義させて頂きたいと思います。そこで今回は主に中間生の仕組みについてお伺い致します。

【質問1
死から次の誕生に至るプロセスの概略について
死から次の誕生に至るまでのプロセス(中間生)について、一体どのようなプロセスで何が行われるか、その概略をお答え下さい。

【ソース】
中間生には、ヒトという、地上で動物同様の形態を取って行われる生活と、同程度の重要なものが含まれています。単に一つの人生と今一つの人生との間というものではありません。もっと積極的な意義や、あるいは効果といったものも、そこには見られます。地上生活側から見れば、中間生は影のように捉えられますが、それは絶対的な捉え方ではありません。向こう側からこちらの世界を捉えれば、こちらの世界こそ影だという印象を、向こうでは受けるほどです。どちらがどちらのために在るというものではなく、対等に近いと言えます。それで先ず、中間生には積極的なそれなりの意義や効果があるという事をお伝えしました。

ある見方によると、地上での人生と人生の間には、他の惑星に滞在して別の学びをしていたというものがあります。また別の見方によると、いわゆる霊界と言われる領域において、修行をしていたり、休息をしていたという見方もあります。どちらが正しいのでしょうか。あるいはもしどちらも正しいとしたならば、その両者の関連性はどうなっているのでしょうか。

これはいずれも正しいと言えます。どのような関連性になっているかと言いますと、例えばAという人生とBという地上での人生との間に、木星に滞在していたという場合、太陽系の中における一惑星としての木星に物理的に滞在していたというよりも、意識の世界における、言わば木星意識という意識状態にいたという意味なのです。

ヒトはすぐに三次元世界的な捉え方をしたがります。それで「どこに、いつ、どのように」というのがすぐに出て来てしまいます。そうすると木星に、そのAとBの間の中間生でいたという風に言いますと、木星人の一人として、そこを地球上での生活のように、体をまとって生活をしていたという風に受け取りがちです。けれどもそれは正しく捉えてはいません。肉体は無いと言えます。中間生においてです。少なくとも肉体はありません。もっと精妙な体はありますが。肉体が無い以上、別の精妙な体があっても、物の次元における三次元の制約からは、かなり自由な状態にあります。

という事は、木星に滞在していたと言っても、この世的な三次元の制約までは受けていないという事です。つまり、肉体の無い別の体で、もっと高次の次元において木星に滞在していたという意味ですから、結局もっと意識の領域においての生活というか、過ごし方になっているという事です。それで結局、木星に滞在していたという(これは一例ですが)そのような場合は、この地球上での生活のようなあり方というよりも、もっと意識の領域において、木星意識とでもいうような意識状態に、その間あったという風に捉えるのが正しいのです。金星ならば金星意識の状態に、その間、留まり続けたというような意味合いなのです。

意識の世界にいても、それなりの学びや気付きは伴います。ただその意識状態にあったというだけではありません。その意識状態にありながら、色々な事が起きても何ら矛盾はきたしません。それで一方で、例えばエドガー・ケイシーのように、現世での暮らしと暮らし(つまり一人生と一人生)との間の中間生は、惑星滞在であるという風に言っても、あるいは一般の心霊科学や宗教において、霊界(正しくは魂界と言うべきですが)、霊界に行って修行しているという場合でも、どちらも正しいという事になり、その間に矛盾は無いという事をいま説明しました。そして関連性も含めて大まかにではありますが説明しました。

このように意識の次元で肉体は無い、しかしアストラル体以上の体は持ちながら、この地上生活とは別の修行に取り組んでいるという事が言えます。

さて、いきなり霊界に行くのではなく、冥界とでも言う、呼ばれるべき領域に先ず向かいます。仏教用語で言い換えるならば、中有の世界です。宗教で説いてきたものは、正しいものが含まれています。ただ表現が宗教的なものを用いているという事だけなのです。たとえ表現がそうであっても、それが空想であるという風に単純に片付ける事は出来ません。表現は非科学的でも、内容は科学的である場合もあるからです。逆の場合もあります。つまり表現は科学的なものを用いていても、内容自体は科学的とは言い切れないものもあるのです。

もちろん誤謬も宗教で説いてきたものの中には大分混じっています。また今の科学のように統一性がないために、同じ事を色々な表現を使って、それぞれの宗教が説いているところが、そのジャンルあるいは領域の科学に未だ成りにくい難点となっています。ただいろんな宗教や神話の中に、それぞれ大切なものが伝えられて来ている事は確かなのです。それらをこれから整理して行かねばなりません。統一宗教を造るという事ではなく、宗教を科学にするためにです。それによって万人のものに成り得るからです。

しかし、個々のものの良さや特性を損なうようなやり方をしてはいけません。例えば三途の川と言った場合、それは何なのかという事を、それを通して生命力を喚起するという意図等を損なわせずに、その生命や効果を保持しつつ、科学的に解明していくという取り組み方を取って下さい。ただ事実を解明するという事で宗教の世界に踏み込みますと、事実は解明されたものの、宗教の生命という、宗教の最も大切なものを損なう、あるいは失う危険性を孕んでいるからです。あるいはそのようなところに気付きませんと、事実の解明すらおぼつかないかもしれません。

このような事を言いますのは、決して、いま質問している者がそのような事に気付いていないからではなく、このリーディングは、これからこのリーディングに触れて行くであろう方々、一般へ向けてのメッセージであり、情報となっているからです。それで用語の統一あるいは整理という事が、先ず科学化するという方向で必要な一部になってくるでしょうが、その際、このような事が考慮に入れられなければいけないという事なのです。さてその上で、もう少し見て行きましょう。

霊界においての意識の階梯というものがあって、それは太陽系の惑星に対応させる事が比較的容易なのです。それで水星意識とか土星意識とかといったように、意識の領域をその特色やレベルに応じて、霊界における生命体(特にヒトという種)の生命の意識形態やその状態、そしてレベル等も、太陽系の惑星に対応させて説明しやすいという事があります。それでエドガー・ケイシーは「木星にこの間は滞在していた」「CとDの転生の間では金星にいて学んでいた」などという風に表現したのです。もしそうでなければ、ずっと体をまとって、この地上での人生のように過ごし続けなければならず、それでは息が切れてしまいます。やはり中間生の第一目的は休息にあるのです。

私たちはよく次のたとえでお話します。輪廻転生の経過は、一日の経過と似ているということです。夜の眠りの時間帯が霊界での暮らし、あるいは休息に対応し、昼間起きて活動している間が肉体をまとって働いたり、過ごしたりしているのに対応するという風にです。仮に24時間のうち8時間夜眠っているとします。そうしますと残り16時間は起きて働いたり、学んだり、人々と一緒に語り合ったりしているものです。このとき、地上生活は昼間の活動時に相当し、夜眠っている間が中間生に相当します。厳密ではありませんが、大雑把にはそのように捉えられると言えます。夜眠っている間は、ただ休んでいるかと言うと、そうでもなく、昼間とは別の学び方をしているのです。それで霊界の過ごし方も積極的な意義や効果があると言ったのです。

先ず癒しの効果というのが中間生には強いと言えます。夜熟睡できると、体調が戻りリフレッシュして朝気持ち良く目覚められます。それと同様にある中間生で良好な過ごし方が出来ると、気持ち良く目覚められるというか、良い感じで誕生でき、つまり健康体として元気な赤ん坊が出産されるという事です。逆にひ弱な子として生まれて来た子は、その前の中間生で、寝不足のような事があったという風に類推できます。原因は一様ではありませんが、大まかにそのような事が言えます。それで生まれ方を見れば、その前の中間生の過ごし方がどのようであったかが、大方推測が付くというものです。

では中間生をどのように過ごせるかというのはどこで捉えられるでしょう。それは前の現生、つまり地上での生活の過ごし方によって規定され、あるいは方向付けられると言えます。もっと言えば死に際によるのです。いわゆる大往生でも遂げられれば、中間生に入って行って、より良い中間生を送れると言えます。大往生の瞬間に、その生涯が集約されて象徴的に現れます。その意味では、死に方によって中間生が規定されるというのは、広くはその人生全般によって、次の中間生を自ら規定しつつ日々生活していると言えます。このように地上での人生が、その後死んでからの中間生の内容やレベルや状態を規定し、今度はその中間生が、次に転生してきた時の人生を規定したり、方向付けたり、内容をそのようなものに予め造り上げていったりという事をしています。

ヒトは自己規定型の存在であるというのが特徴で、これは自由意志があるからこのような事が起きるのであり、このように規定する際の作用をカルマと言います。カルマは何も地上生活の間で作用するばかりではないのです。あちらの世界、つまりあの世にまでも、もつれ込んで行きます。この世とあの世を含めたところで作用している法則なのです。そしてそのような規定をする際、特に一つの人生のあり方は、死に際に集約されて現れるという事、それで狭く捉えれば、死に際で次の中間生が分かるし、それで規定されると言えるのです。また次に誕生する時に、中間生での過ごし方が集約されて出て来るという意味では、生まれ方を見れば、中間生が大掴みに捉えられるという風に言えます。しかし広く捉えれば、中間生全般の過ごし方が、次の地上生活全般を彩るという風に見るべきです。

さて、もう少しプロセスの中で具体的に見ていく必要があります。例えば死に方についての質問。他には死んでからどのような事があるのか。例えば「人生においての事を相手の立場で体験させられるのか」といったような事も含まれて来る筈です。それらについては以下のご質問に応じて言及されていく事でしょう。

【質問2
中間生について、さらに細かくお伺い致します。
死の瞬間についてお伺い致します。先ず、死の正しい定義についてですが、死とは体から霊・魂が分離することと考えておりますが、それでよいのでしょうか。

【ソース】
大まかには正しいと言えます。ここで補足するならば、霊は分離しますが、魂の全ても、それに伴ってそこから開放されて、全てが霊と共に体から分離されて、中間生へ行けるという訳ではないという事です。霊は全て行けますが、魂は一部携えて行けないものが残ります。それは体と共に失われます。それで魂をアストラル体とエーテル体という風に分けたのです。アストラル体の方は霊と共に向かって行けます。それに対し、エーテル体の方は肉体と共に解消してしまいます。とは言え、肉体とエーテル体の運命は同じではありません。また一方、霊とアストラル体とは引き続き存続するとは言うものの、霊とアストラル体との行く末も同じではありません。その辺は分けて考察されねばなりません。

さて、肉体やエーテル体は物質界に還元されていくのですが、この際、注意しておきたい事は、分離すると言っても、元々別のものが分離して別々に還るという事ではないのです。肉体というものは自分の一部なのです。何か西洋の宗教や哲学の捉え方ですと、先ず客観的な物というのが在って、その周囲にいろんな霊魂が漂っていて、その物質の一つに、ある霊魂が宿る、あるいは入って来るなどという捉え方が強いと言えます。けれどもそれは当たっていません。むしろ肉体というのは、霊魂が自分の中から造り出した作品だという事です。物質というものの由来は元々そのようなところがあるという事です。

もし物質の他に霊魂という精神体があるならば、これは哲学的には二元論という事になります。けれども実際は一元論が正しいと私たちは見ています。これを当てはめるとどういう事になるかと言いますと、元々精神しかないという事です。それと並列して物質があるのではないという意味です。むしろ物質というのは精神から生み出されて来たという事です。精神が物質化したのが、物質という意味です。それで精神の方が上位に位置しています。そして現象世界は真の実在ではないという事になります。そして並列する二つの客観的な領域ではないという事ですから、霊魂が物質を造り出し、且つ規定している事で、両者には繋がりがあります。

それで肉体から分離するという場合、それは元々関係のない客観的な一物質に宿っていたものが、それから抜け出たという風に去って行くのではない、という事を言いたかった訳です。そのようにもし捉えているとしたならば、それは正しい捉え方ではありません。確かに去って行く訳ですが、元々無関係なものに宿ったものが、やっと開放されて、そこに肉の塊だけが残るというのではないのです。物理的領域における物を材料として、魂が肉体を造り出すという風にも言えます。しかしその繋がりを自ら断った時にそれは物と化します。

さてエーテル体はどうなるかと言いますと、エーテル体は誰のエーテル体という風には言えないところがあります。エーテル体は幾層かに分けて捉えられます。先ず個人のエーテル体があります。これはその生命体独自のものです。それに対して、もう少し広がりのあるエーテル体というのがあります。ちょうど意識が幾層もの階層をなしているようにです。たとえば集合的無意識は個人の意識を超えたものです。超意識はさらに普遍的です。だからと言って、個人が全くそこに無いかと言うと、そうでもなく、個人のものもそこには関わっているために、個人の意識の一部として、集合的無意識や超意識もその人のものだという事でもあり得るのです。

それと同様、エーテル体も個人のエーテル体としてあるとは言え、狭義の厳密な意味での個人のエーテル体というのが先ずあり、その他に家族のエーテル体というのがあるのです。そしてそれでもなお個人のエーテル体ともなっているという事です。なぜならその個人は家族の一員であるからです。さらに民族のエーテル体というものもあります。そして人類というか、ヒトというのを保持するエーテル体というのもあるのです。

家族のエーテル体というのは何かと言いますと、先祖からの遺伝を通しての、主に肉体レベルでの先祖の遺伝が、さらには記憶も引き継がれて行くという事で、この家族のエーテル体がその役目を担っているのです。それで遺伝の法則とこのエーテル体が大いに関連しているという事が分かります。それに対して生まれ変わりという場合は、アストラル体や霊の方が主体となっているという事が分かります。先祖からの遺伝を見ていくのか、そうではなく個人の実体の生まれ変わりを見ていくのか、それによります。

さて遺伝は記憶とも関わりがあります。俗に言う先祖の記憶というものもこのエーテル体によります。また集合的無意識というものもこのエーテル体と大いに関わりがあります。また各民族には文化というものがあります。民族特有の文化を造り出しています。それは民族のエーテル体の反映なのです。動物の場合は群魂というのがあって、このエーテル体主体になっています。ヒトのエーテル体はそれらとはやや違っています。ただ同系列ではあります。

ともかく家族のエーテル体がその家を形成し、昔は日本でも家社会と言って、家単位であり、あるいは部落単位、村落単位であって、そのグループや種族の長(おさ)は、そのエーテル体を治めるというものが本人の中にあったという事で、そのような役割を果たしています。しかしこのような傾向は弱まって来ています。それは人々が進化を遂げて、エーテル主体からアストラル主体に移行して来ているからです。もう少し行けば、霊主体あるいは自我主体に成りつつあります。もっとも「自我」と言っても、アメリカの個人主義のようなものは、高いレベルでの個人の自覚ではなく、アストラルに下りて来ている自我の、個の目覚めに過ぎません。

ヒトの死後、エーテル体はエーテル体のそれぞれの階層に置いて行かれます。それはそれで独自のもので独り歩きしているからです。では個のエーテル体はどうなるのでしょう。個人の記憶は携えて行けないのでしょうか。携えて行けません。しかしそのエーテル体も、本人の本体であるところの霊やそれに付随するアストラル体と繋がりが有り続けます。そして個人レベルのエーテル体を分離したとは言え、消失する訳ではなく、それは存続し続けます。それでよくアカシックレコードに行きますと、本人の本体が地上に生まれ変わって来ていても、本人の個人のエーテル体はアカシックレコードに留まっていて、独り歩きをしているかのように映じます。それで、それが一つの実体のように振る舞うのです。そうすると通信できます。生まれ変わっていてもです。

それは生き物のように振る舞うのです。心もあるようにです。それは生命体、エーテル体ですが、記憶体と言っても良いものです。しかしこのエーテルレベルの記憶は、ヒトの記憶の一部です。従ってエーテルレベルのリーディングをするのは、浅いリーディングになってしまいます。それにしてもエーテルから記憶を取り出すという事が出来ます。このエーテルを上位の次元で統括しているのが聖霊とキリスト教の方では言われている働きなのです。それで聖書の中には次のように記されています。「聖霊をあなた方に贈る。この聖霊の働きかけで、あなた方が必要なものなら、何でも想い起こす事が出来るようになる。」という風にです。

このエーテルレベルの記憶というのが、肉体の脳との関連が密であります。そして普通これが記憶と呼ばれており、モーゼはヒトのエーテルと、特にユダヤ人の民族エーテルに同調するのが得意だったので、創世記からのいわゆるモーゼの五書を記す事が出来たのです。

【質問3
今、エーテル体という話が出ましたので、それに関連して少しお伺い致します。エーテル体は、家族のエーテル体、民族のエーテル体、ヒトのエーテル体という風なものがあるというお話ですが、例えば企業とかあるいは個人の集まりのグループという風なものが出来ると、それに応じて新たなエーテル体が形成されるという風に考えてよろしいのでしょうか。

【ソース】
ほぼ正しいと言えます。グループ単位のエーテルというものも一応あります。ただしかしながら、あくまでエーテル体の単位は、血の繋がりというのが基盤にあるという特色を有しています。それで個人の次は家単位、そして部族や村落(特に昔ながらの部族や村落という血族同士の集まりの事です)、そして種族や部族から民族、そしてヒトに至ります。グループというのはカルマや理念等によって結び付いているので、エーテル体は形成されますが、特殊なエーテル体と言えます。一応可能です。それで同族会社が企業のレベルとして発展を遂げるには、この根強い基本的なエーテル体のあり方から、脱皮を遂げさせるという事を起こさねばなりません。それで経営コンサルタントの人たちは、そのエーテル体の転換あるいは上昇、進化と言っても良いでしょうが、それに一役買っていると言えます。なかなか同族会社のレベルから脱するというのは大変なものです。

企業も大企業になりますと、今度はグループ単位のエーテル体をも、脱皮させるという手続きを踏まねばなりません。そうすると、もう公のように、それは個の特色、広い意味での個ですが、それがもうそこには見難くなって来るのです。大企業はもう国公立のようなものに殆ど近くなって来ます。それで大企業の社員はもう公務員のようになってくるのです。そうするともっと大きな規模での意志や意向というのがそこに作用するもので、それだけで独り歩きして行くようになり、どこかに属しているというのが殆ど失われて来るのです。

しかし中小企業のレベルですと、やはり何かの癖というか、一つのカルマとか、特徴とか、ある個人の強い願いとか、思い入れが根強く尾を引いて行きます。そしてそのような中でエーテル体は強く作用し続けます。大企業になりますと、これが脱ぎ捨てられています。そこが大企業と中堅企業の決定的な差だと言えるでしょう。

エーテル体は文字通りの意味でも広い意味でも、個を保持するというので、個の思い入れとか、願望とか、理念とか、目標というのが強く結び付いているのです。それに対してエーテル体を脱した大企業においては、もうあまりそのようなものが無く、公的になってしまうのです。そうするともうあまりCI(コーポレート・アイデンティティー)とか、社標とか、会社のマークとか、会社の使命とか、そういうものが無くなって来ます。特色も少なくなって来ます。

民族は特有のものが有りますが、混血という事がなされて来ますと、エーテル体に変化を起こす事が出来ます。それで混血というのは(国際結婚とかですが)、エーテル体に錬金術的な変化を起こす鍵です。それはシュタイナーも述べています。それによって愛が異質なものへと変換されて行くという事です。ただの変換ではなく、進化に向けての変換という事です。エーテル体は根強いものを持っているので、それを打ち破るのにはそのような道があります。

いわゆるカルチャーショックはこのエーテル体に基づくと言えます。エーテル体はと関係しており、エーテル体は生命体の事であると言いました。しかし今回はその生命体に、記憶というものや血族関係での絆というものが、大きく関与しているという特色を有する事を伝えています。なぜならこれが中間生に大いに関わって来るからです。中間生にエーテル体は持って行けないと言いました。同時に一方ではそれが中間生に大いに関与すると言いました。その辺の関わりを見て行かねばなりません。ただ今回は質問が待機しているために、全般的にカバーしていく事が先行するかと思います。

【質問4
死の瞬間について、もう一つ追加で質問させて頂きます。現代医学では体の死というのは、心臓停止あるいは脳死という二つの考えがございますが、それと体からのアストラル体あるいは霊の分離というのはどういう風に関連しているのか、お答え下さい。

【ソース】
エーテル体はオーラとして通常捉えられます。死ぬとオーラが消えるのです。それで分かる事は、死ぬという事はエーテル体が肉体から去って行く事なのです。エーテル体があるゆえに、肉体は生きていられます。肉体を生かさせるもの、それがエーテル体です。それで死んでるか、生きてるかは、エーテル体が肉体に留まっているか、離れてしまったかによって分かります。それが目安です。エーテル体が肉体から離れかかると、臨終がいよいよ近付いたという事になります。それで死にかかって来ると、エーテル体が肉体に固定して居られなくなり、出たり入ったり、ともかく不安定状態に陥ります。よく一度死んだけれども、また生き返ったというのは、このエーテル体が一度殆ど離れたけれども、どこかまだ繋がりが保たれていたので、エーテル体が肉体の方にまた重なり合って来られたという現象です。

ではもっと肝心の霊やアストラル体はどのように動いて、死と関連しているのでしょう。直接肉体の生死に関わるのはエーテル体の方であります。そしてそのエーテル体の動き如何で、霊やアストラル体という上位のレベルは、行き方、向かい方を決定します。直接はこのようにエーテル体が鍵を握っているという事です。上位の霊やアストラル体は素直にそれに従います。それで霊やアストラル体がどう動くかは、直接人間の生死には関わりを持ちません。死ぬか生きるかはエーテル体の動きいかんに係っているという事です。それで死んだか、まだ生きてるか、回復する見込みがあるかどうか等に関しては、エーテル体だけを考慮に入れれば十分です。エーテル体が完全に離れ切った時に、それを見届けて、霊とアストラル体はその肉体を後にして、霊界へと上昇して行くという事です。

もう少し厳密に言い換えねばなりません。元々霊は肉体に留まっていません。肉体の外に有ります。もっと正確に言いますと、外とか内とかという事ではなく、霊というのは、時間や空間という三次元の枠からは全く自由な、絶対的なあり方として存する訳ですから、中も内もなく、ただ在るというあり方なのです。それで離れるも戻るもありません。その人の本体である霊は去るという事はありません。最初からそこに居ると言うよりも、本質として、それは三次元の典型である肉体からは、全く自由なのです。元々自由でありますから、繋がっているとか、繋がりが断たれるという言い方は相応しくありません。

アストラル体となると、また別です。アストラル体の方は三次元の制約をある程度受けているからです。しかし繋がりはあっても、それから比較的自由です。心はいろんなところへと馳せ、飛ぶ事が出来るのです。想いは遠くに及びます。だからアストラル体は大きく広がりがあるという特徴を持っているのです。従っていつでも行き来が自由です。その証拠に夜夢を見ている時は、自由自在に肉体を置いて、心は想いを馳せて、自由に飛び交うのです。夢は、簡単に言ってしまえばアストラルトリッフなのです。夢はアストラル主体のものです。それで死を待つまでもなく、アストラル体は自由に肉体を離れる事が出来るという事です。それで結局エーテル体のところに戻って来ます。

心臓が停止した時の死と脳死とで、どのような違いがあるかというのを見ていきますと、まず心臓が停止するのは典型的にエーテル体が体から離れ去ったという事なのです。では脳死の方はどうでしょう。脳死の方はアストラル体が離れたと言っても良いでしょう。これは分かりやすく大雑把に言ったものです、が、しかし、ほぼそうだと言えます。では先程述べた「夢を見ている時は死ななくても自由にアストラル体が飛び交っている」というのと、どう関連しているのでしょう。と言いますのも、夜夢を見ている時は、夢を見てアストラル体が肉体から離れていても、脳は停止していないからです。脳波は下がりますが、脳死にはとても至っていないからです。

夢でも熟睡して来ますと、夢を見ているレム睡眠状態を止め、夢も見ないような熟睡から昏睡状態に至り、脳波が段々下がって来ます。そしてさらに来たらば、いわゆる死という事になってしまう脳死に至る訳ですが、そこまで行くとアストラルトリップも出来なくなります。それは完全にアストラル体が肉体と切れたという事です。このようにアストラル体が肉体と切れた時、それが脳死が訪れたという事です。こうなるともう戻って来られません。

それに対して心臓停止というのは、エーテル体が肉体から去ったというだけの事ですから、エーテル体は比較的容易に肉体に戻れますから、また息を吹き返すという事も可能性として残されているという事です。霊は先程言いました通り、元々肉体から自由で、それそのものとして実存していますから、これらには一切関わりがありません。従って考慮に入れる必要はありません。

[追補]
アストラル体は、盆の窪ところで肉体とつながっており、銀のひも(シルバーコード)で肉体と結ばれています。それで夜夢をみている時、魂界(アストラル領域)にアストラル体が行っていろいろ体験して、朝になると、このつながりで肉体へ戻って来られます。ところが、ここのつながりが断たれるとあちらへ行ったきりとなり、つまりは死んでしまいます。これが脳死です。三途の川を渡ってしまったということで表徴されます。盆の窪がそれほどまでに重要だというのは、試しにその個所に細いハリ一本を刺しただけで人は即死に至らしめられてしまうことでも分かります。(浅野記 1996.11.21

2011年2月5日

輪廻転生の真の構造、転生の目的、前世の記憶、転生の形態と、ヒトの進化のプロセスについて。

リーディングNo.1843

【質問1】
ヒトの進化プロセス、言葉を換えますと、地球学校における学びの仕組みについて、お伺い致します。地球学校では輪廻転生(生まれ変わり)というプロセスを通じ、ヒト一人一人が次の段階の生命に進化すべく学んでいるとリーディングにより指摘されています。そこで、この「輪廻転生」という地球学校における学びの仕組みについての基本事項を質問致します。
先ず最初の質問です。輪廻転生(生まれ変わり)とは何か。生まれ変わりにおいて一体何が生まれ変わって来るのか。生まれ変わらないものは何なのか、お答え下さい。

【ソース】
霊の担い手、厳密に言いますと霊の働き手である自我が生まれ変わります。それが生まれ変わる当体あるいは主体です。霊そのものは生まれ変わりません。霊の動いている働き手のところである自我が生まれ変わる実体なのです。それが生まれ変わって来ます。その際、魂の上位に位置するアストラル体も、それに付随して共に生まれ変わります。それに対して、魂の下位の側面であるエーテル体並びに肉体は生まれ変わりません。一代で終わります。肉体の死と共にそれは終わりを遂げるのです。アストラル体は心の傾向として、それは受け継がれていきます。個性もそれに含まれます。

さてエーテル体は生命体の事でありますが、記憶の担い手でもあります。エーテル体が肉体と共に滅び去る運命にあるのなら、記憶は受け継がれないのかという問いが、当然出されて来るはずです。言わば表面的な記憶は肉体と共に滅び去り、土に還元して行ってしまいます。解消してしまい、受け継がれて行きません。けれども記憶の根に相当するところ、記憶の元ですが、そちらの方は受け継がれて行けます。それで記憶の根に相当するルーツですが、そちらはアストラル体に起源を持つため、アストラル体と共に、自我に担われて存続して行きます。それでエーテルレベルの記憶は解消し、忘れ去られて行きます。それに対し、記憶の元になるアストラル体に根を有するところの記憶は存続するのです。

さてカルマは主にアストラル体に存在しています。エーテル体は言わばエネルギーです。今はやりの「ゆらぎ」といった特有の動き方をするのが、このエネルギー体としてのエーテル体です。非常に不安定なあり方をしています。すぐ変わります。変化しやすい不安定な実体がこのエーテル体です。それが魂の原動力を成しています。そしてそこに記憶が有ります。脳との関連で、それは、感情と記憶は関連性を持っているという風に説明付けられています。ほぼ同じ事を今はエーテル体が記憶を担い、そのエーテル体そのものが不安定で移り変わりやすいために、記憶が移り動きやすい感情として、このような関連性を持っているという風に説明付けました。

つまり本来感情はアストラルレベルではあるのですが、特に感情の不安定な動きとして、感情の力の方、感情のエネルギーを成すものがエーテル体に属するため、感情の特に動かしている原動力というところでの結び付きが記憶にある時に、その記憶は非常に感情に規定され、感情と記憶は密接不可分に見られやすいというのが、脳の方から、特に側頭葉のところに記憶が保管されているという事で、一般に説明されているのです。いずれ脳と、例えばエーテル体との関連性、あるいは脳とアストラル体との関連性、あるいは自我と脳との関連性等も究明されるべきです。

さて脳は肉体の一部です。当然の事ながら、死と共に脳は自然に還元していき、その個体としては存続を許されていません。それで脳と例えばアストラル体が関連性を有するといっても、関連性を有するという事であり、それそのものではない訳で、従ってアストラル体が存続していく事を、いささかなりとも脳の消滅が妨げはしません。繋がりが有るという事は、イコールを決して意味しないからです。

ところが今の大脳生理学は、繋がりが有る事を「それがそれである」という風に結論付けているように、私たちには受け取れてしまうのです。唯物的な科学の欠陥がここにも露呈しています。これまでの科学は唯物的な科学なのです。それで物との関連性があるところを、その物であるという風に、早急に結論付けているのが随所に見受けられます。そこで動いているだけにも関わらず、それが動いているという風に見なしているのです。

例えばそこで心が動いている場合「それが心である、そこに心がある」といったようにです。それで何が輪廻転生するかという場合を見る場合でも、魂の上位の部分であるアストラル体が輪廻転生するという風に見てしまうのです。心が存続するという実感がヒトにはあるからです。けれどもアストラル体そのものが転生する主体なのではなく、自我の方がその主体であって、アストラル体はそれに付随して、伴って行けるという関係性なのです。

ところがそこで生まれ変わりながら動いているというのが、実感としてアストラル体についてはヒトは分かるために、アストラル体とは言わずとも、アストラル体としての指すものが転生するという風に勘違いしているという点、それとその上位の自我のところは感知できないという事の二点で勘違いをしています。特にアストラル体が動いているのが、動いているために関連性という事が分からないのです。実は関連しているだけで、それそのものではないのに‥‥そういう事が分かります。

魂は輪廻転生する主体ではないという事です。自我の方がその主体であり、魂の一部、特に上位の部分がそれに伴って行けるという事です。

なぜ生まれ変わって来て前生を容易に思い出さないかと言いますと、エーテル体が一般的に記憶の担い手になっているため、そしてそのエーテル体はその人生の死と共に失う事によります。普段なぜ覚えているかと言いますと、その人生の事に限っては同じエーテル体であるために思い出せるのです。普通の記憶術はエーテルレベルの記憶術です。ところがアストラルレベルの記憶を想起するという手法を身に付ければ、前生をも思い出せるのです。

前生を思い出すには二つの方法があるかと思います。一つはエーテル体は失われてもアストラル体は引き継がれて来て同じものですから、アストラル領域に自ら入って行けば、その根から当時の茎や花を再現出来るという方法。いま一つの道は前生のエーテル体を自分のイメージの中で再現してそれを捉えるという事、それは主にアカシックレコードのエーテルアーカーシャーに入って行く事によります。これが出来るようになりますと、他の人の記憶も取り出す事も出来ます。自分の前生のエーテル体だけでなく、他の人の残影としてのエーテル体に入って行く事で、その人の前生を読む事が出来るのです。

さて、大雑把に分けての話ですが、エーテルレベルのリーディングはイマジネーション(imagination)認識に基づきます。アストラル領域でのリーディングはその上位の認識であるインスピレーション(inspiration)認識で可能となります。さらに自我のレベルまでリーディング出来るようになるのがインテュイション(intuition)認識に支えられて可能となります。それでエーテルレベルのリーディングが出来るようになれば、前生の記憶を辿るという事が可能になるのです。

さてエーテルレベルまでですと、何が輪廻転生するのかというのは捉え切れないために、記憶が断片的に浮かび上がって来るという事で、その脈絡が掴めません。もっと著しい場合は、自分の記憶か、他者の記憶か、判別が付き兼ねます。それで他人のエーテル体の記憶を、自分自身の記憶であるかのように、さも受け取る場合が多いのです。この事が良く退行催眠において生じている事です。またドラッグ等特殊な道で意識を開くと、あたかも走馬灯の如く、次々にいろんな人生いろんな体験の記憶が脳裏をめぐり出します。そうするとそれらが全部、自分がかつて生まれ変わりながらそれらを体験した、そしてその記憶が自分の脳裏をめぐり始めたという風に思い違えるのです。これはエーテルレベルでの判断と呼ばれます。

思い出したからと言って自分がそれを体験したとは言えません。関連性があると言うだけです。そこに接続したという事をそれは意味するのみです。それで極端な場合は、アメーバの時から最近のオラウータンやチンパンジーの時を経て、今の自分という人間に成るまでの数千回にも及ぶ生まれ変わりを、自分が捉えたという実感を持つのです。それはエーテルレベルで肉体上の生命進化を捉えたというだけの事であり、それが即自分の実体そのものが文字通りそれらを経て来たという事ではないのです、そこのところが仏教やヒンズー教等の輪廻転生での陥っている誤謬であります。それで仏教やヒンズー教では数千回数万回の輪廻転生を言うのです。

思い出したからと言って、それが自分の前生だとは限らないという事、エーテルリーディングからアストラルリーディングにまで上る事で、その誤謬に気付く事が出来ます。退行催眠を行いますとエーテル体に到達し、エーテル領域を揺り動かすのです。催眠というのはその術です。それで皆、容易に御先祖様の事を思い出すのです。しかしそれは自分そのものの輪廻転生ではないのです。あくまで自我が生まれ変わるのであり、自我が自分の当体なのです。エーテル体は家族体とも呼ばれる通り、家族や一族、広くは民族まで同質のエーテル体を共有しているのです。もっと広くはエーテル体と言うのは、ヒトという種は、皆ほぼ同じエーテル体なのです。それで自と他の識別がエーテル次元では困難なのです。

さらにそれが肉体的な輪廻転生ではなく、生命進化という方と繋がると、ますます混乱を来して、挙げ句の果ては牛から人への生まれ変わり、人から犬への進化(というより退化)、そのような生まれ変わりを実感してしまいます。それは肉体上の生命進化の連続性にエーテル記憶が結び付いて混乱を来した結果です。本当はそんなに何万回も生まれ変わりません。まして人から動物、あるいは動物から人という生まれ変わりは起こりません。動物は動物として群れをなしているだけです。この事は決して動物の価値を否定したりしている訳ではなく、そのような事実が明らかになったからと言って、動物や植物の価値を、その事をいささかも減じないという事を私たちは了解しています。それでこのような事実を明らかにしています。

この事からも分かる通り、輪廻転生に関しては様々な混乱や誤謬が多いのです。退行催眠の方法は科学的に生まれ変わりを解明したり、裏付けるのには弱点が多いと言えます。退行催眠を用いる場合に、本当に本人が自分の前生を文字通り思い出しているかどうかの一つの識別の方法は、「当時の言葉で当時の事を語っているかどうか」と言うのが一つの目安になります。ところが今の言葉で今の表現で語っている場合、その催眠の被検者はエーテルレベルで語っていると見て良いのです。

アストラルレベルから自我のレベルまで到達致しますと、今度は他の自我との識別が可能となり、さらに選り分けられるようになるのです。そこまで至って初めて自我そのものが輪廻転生するのであって、アストラル体はそれに付随する一部に過ぎず、エーテル体や肉体は伴えないというのが分かります。

それでダーウィン以来の生物の進化論は、唯物的科学の所産の一部であり、肉体レベルでの進化の法則を見ているだけだという事に思いが至るのです。それはそれで一つの法則が作用していますが、生まれ変わりはそれを利用しているだけであって、生まれ変わりの法則がそれに規定されるという事はありません。結果的に動物からヒトヘの進化等を含めての生物の進化論は、辻棲が合っているだけです。それは現象の事実ですが、生まれ変わりはその辻棲を合わせるように作用してくれているという事です。

結果的に辻棲は合わされています。それで、さも生まれ変わりも肉体の進化論、つまり形態や構造や機能の生物進化に見習っているかのように映ずる訳ですが、実際はそうではありません。動物がヒトに進化するという事は、少なくともエーテルレベル以上では決して起こっていません。肉体レベルで起こっているかのように見えて、肉体レベルで連続しているだけです。それを利用しながら、目に見えないところで様々なドラマが続いて来ているのです。

前生が有るという事、あるいはそこでどのような法則が作用するのかという事を科学的に裏付けるために、他には「前生を記憶している人が、それを思い出すままに、その裏付けを取って行く」という方法もあります。これはバージニア大学のスティーブンソン博士がそれを徹底して行いました。けれどもこの場合は、自然死ではなく突然死を遂げたところを主に憶えている場合が殆どなのです。従って病的な症例が殆どであり、やや偏った裏付けとなりがちです。しかも割りと最近の前生だけを憶えている場合が多いという難点、それから子供の内しか憶えていないという難点等の限界を持っています。

それでやはり、例えばシュタイナーが述べたように、「瞑想から入り、一人一人が意識の進化に励む事で、段々識別しながら文字通りの前生を探究して行く」というのがオーソドックスで正当的な道なのです。そしてそのような道を歩む者が正しい真理に到達するのであり、そのような者たちが前生を科学的に解明する道を拓いていく事になるでしょう。そしてそのような道を歩む者が、退行催眠等の手法を用いれば、それは有効なものとして参考になるのです。

最初の質問に関連する事として、以上のような事を、先ず補足として付け加えておきました。

【質問2
生まれ変わりの終了についてお伺い致します。先程ヒトとして次の段階に進むには、「自我の完成という事によって次の段階に進める」という指摘がございました。それで一体その自我の完成というのは何を指すのか。またその自我の完成というものは、一つの現象なのか、あるいは多様な形態が有り得るのか、お答え下さい。

【ソース】
多様な形態が有ります。人間として完成するとは、一体どういうことなのかという事ですが、つまり完成すると転生を完了出来るからです。成長して完成に至れます。そういう事は確かに言えるかと思います。ところがこれに一つの落とし穴があって、成長して何か別の模範的な存在になって、それが完成であり、それで転生を完了出来る、という風に錯覚している節があります。成長するために、善を進んで行い悪を極力控える。それは宗教的な戒律や律法に基づく、善悪の倫理観に基づく修行の道を必要とします。仏教の中でも小乗仏教と呼ばれるようになったのはこのような道行きです。

ところがそれはどうやら上手くいかないという事に気付いて、大乗仏教というのが新たに出て来たのです。そもそも最初から完全だったからこそ、初めて、後から完全に成れるのではないか、という捉え方と言っても良いと思います。それで一瞬にして悟れる、とかいう禅の道も拓かれて来ました。苦労した末に完成に至るというのが、上手く行かないばかりか、それは捉え方からして間違っているという事です。

最初に完全だという見方、それはヒトの本質に霊があるという事からも説明出来ます。それで完成するというのは、何か別の模範的な存在に初めて到達したという事と言うよりも、本来の完全性を表わし出したという事です。あるいは本来の自分のあり方を復元出来た、取り戻せたという事、本来の自分に復帰出来たという事です。最初が前提として完全であったという事があるからこそ、このように言えるのです。

それで成長して段々に長所が大きくなり、短所が減じて、遂には長所だけとなり、短所が無くなって、全ての特性を取り揃えて完成を見るという事ではなく、自己の中の特性を十分に活かし切る方向で歩む事で、自分が完全に復元し、本当の自分を取り戻し切るという事が、少なくともその人にとっての完成であるのです。その人がその人に成るという事です。初めに立ち返るとも言えます。イエスの「幼子の如くなりなさい、そしたら天国に入れる」という教えも、これを指し示しているというふうに言えます。道教の太極というのもそれを指し示しているとも言えます。それでその人その人の完成がある訳で、多様であるという事になります。

いろんな必要な特性を全部、無いものを全部育てていって、全部揃えなくてはいけない、逆に自分の中の不徳や短所は全部消して行かなければ完成しない、そのような道は、労多くして功少ない、自然の摂理に反した道なのです。これらは学習や向上心を持って精進する事を否定してはいません。新しいものが輪廻転生の過程で付け加わって来て、自分が豊かに、さらに大きく育っていくという事をも否定していません。ただ自分にだけ焦点を当てる事を意味していないからです。ただ基本的な方向はそのようであるという事を先ず言ったのです。

その上で、つまり自分の中心軸に限りなく立ち戻るという基本方向で進むという事、その際自分を豊かに肉付けして行くという事で、他から新たなものを取り入れて行くということに人生の意義があります。それを成長というより、成熟というふうに言っても良いかと思います。そのための輪廻転生です。なぜならただ起点に立ち返るというだけならば、プロセスの意義は半減するからです。そうではなくプロセスで新しいものが加わり、豊かに成っていくと言うのならば、起点に立ち返ったというだけに留まらないプロセスの意義が十分に出て来て、スタートとゴールは基本的には同じであっても、豊かさがそこには加わっているという違いが見出されます。それが生まれ変わる意義です。生まれ変わりから得られるであろう成果です。

そして起点の時よりもなお一層多様性を帯びて来ます。と言いますのも、スタート地点における各実体の相違というのは、自我そのものに属する違いに過ぎなかったのですが、終って見ての、つまり完了時点での違いというのは、自我という本質における決定的な違いに加えて、互いの経験上に基づくバリエーションというのがそこに一枚加わるのです。それで本質上に基づく当初からの違いに、様々なバリエーションがそこに出来てきて、世界を豊かにするという事になり、完成して見ると、ますます違いがお互いの間に出て来たという事です。

さて、これらの違いはお互いに受け入れ合うのを妨げる要因にはならず、むしろ互いに相手の価値を認識し合う足しになるという素として役立ちます。愛は違いを生み出すのです。愛が完成するのです。自我が完成すると言っても良いでしょう。自我は完成すると愛そのものとして輝くからです。そしてそれが霊の本質として、霊の本質に立ち戻るという風に、自我は霊に解消して行きます。それで自我が完成した時は、自我の目覚めから立ち返って、自我の自覚が再び無くなります。そして霊そのものとして自覚出来るようになります。

神はそういう方です。それで自我が愛という事で完成した時は、自我と感ぜず、霊として感じます。霊そのものとしてです。自我というのは便宜上の実感であり、無いものだったのです。それでと言い続けたヒトは最後にはとは言わなくなります。自他の隔たりを意識しなくなるからです。それだけ大きな存在に成れたという事です。自我という幻想が、他との区別や隔たりを設けさせる壁を造り出しているのです。そして霊は最初そのような形で自覚されて来るという事です。そしてそれが輪廻転生を生み出している主体なのです。そしてそれが崩壊する時に、絶対というものをヒトは認識出来るに至ります。

その壁が時間と空間という主体的な幻想物を生み出す当体だからです。そしてそれが無くなる時に、時間と空間が元々無く、自分たちが便宜上進化を遂げ、つまり自分を取り戻すために、便宜上必要あって自分が造り出していたに過ぎないという事に心底気付き、時間と空間が作用しなくなり、霊を霊として自覚出来るために、絶対というものが分かるようになり、自分は本来神であり、神の一部でもあったという事が分かります。そして他のあらゆる生命体も同様であるという事が心底分かります。ヒトの最終段階はそこで終ります。

それによってその実体の個性や他との違いが失われる事はありません。それは内を豊かにする一つの輝きとして引き続き存続するのです。しかしそれは星のように輝き、ある人たちはそのような存在たちを天使と呼ぶ事もあります。しかし実際は天使以上のレベルに到達して来ているのです。

【質問3
今の質問に関連してですが、学びのプロセスの多様性の意味についてお伺い致します。先程、霊が進化していく事によって、経験上のバリエーションが付け加わるというお話がございました。その経験上のバリエーションの意味について、もう少し詳しくお答え下さい。ヒトは人種、性別、職業等、極めて多様性に富んでいます。また一人一人の人生も千差万別です。このような多様性というのは、一体どのような本質的な意味があるのかお答え下さい。

【ソース】
ある意味で、「愛というのは豊かさによって初めて完成出来る」という風に言えるかと思います。愛というのはなぜなら単一では有り得ないからです。愛というのは違いに支えられて出て来るとも言えるでしょう。ところが一般にはそうは捉えられておらず、むしろ逆に捉えられているのは残念な事です。つまり一般には愛は単一であり、違いや多様性はそれを妨げる正反対の動きであると言ったようにです。けれども実のところ、違いあるいは相互間の多様性は愛を実感出来る道であり、機会ともなっています。それで多様性があって初めて愛は互いに育つのであり、それによって自我が段々霊へと立ち戻る事が出来るのです。

なにゆえ異なった様々な人種や民族、あるいは国家を営んだり、様々な職業があり、運命まで異なっているのかと言いますと、愛を育てる上に違いというのが一番役に立つからです。互いの違いが愛を実感させ、また愛を促進する基なのです。同じであるという事は互いの存在意義や価値を実感させてくれません。同じだというのは、どちらかが必要無いという事をむしろ意味してしまうからです。互いの価値の認識をし合えるというのが愛の出る元です。そのためには互いに違わなければいけません。そのために異なった民族や人種が出て来ているのです。

さらにその中で個々人も違っています。違うためには経験が違う必要があります。最初に違うのではありません。後で初めて違って来るのです。何が互いの違いを造り出すかと言いますと、経験です。違った経験です。異なった行動や体験、それが互いの差異を造り出す元になります。ヒトを造り出すのは後天的な経験だというところに今焦点を当てて語っています。元々の違いというのが確かに自我の面にあるのは、自我が個性の本来の担い手だからです。その上で後天的な経験の違いが、さらにそこにバリエーションを持たせてくれます。そして互いのかけがえの無さというものを実感させ、他の存在肯定というのが、これが愛を育てる栄養源になってくれているのです。

ところが、一般に違うから認められないという風になりますと、自我の壁を厚くしてしまい、違いがマイナスに出てしまうという事です。これが悪と呼ばれる起源です。それに対して違うから良いというのが善へと向かわせる元です。同じであるのは善も悪も出る余地を与えません。違うという事が善も悪も、両方の道を拓きます。そしてその中で敢えて善の側を選び取るという事で成長でき、つまり自分を取り戻して行く道が拓かれて行くのです。

善というのは愛を選び取るという事です。悪というのは消極的な言い方ですが、そちらを選び取らないという事です。それで違った経験が出来るように仕組まれています。違った経験によってさらに違いが互いの間に生じて来ます。そしてそれらは世界を豊かにするのであり、それだけ愛がお互いの間に育つ機会を拓いてくれているのです。

やや文芸的な表現を用いての説明になってしまいました。これから同ようの質問に対して、より分析を加えて、論理的に科学との接点を持てるべく、説明する必要性が出て来そうです。

【質問4】
ヒトとしての完成というのは、今のお話で、愛が完成していくプロセスだというお話でした。その愛の完成という事に関してですが、愛の完成というのは、霊あるいは魂それぞれの構造変化とどのように関連しているのか、お答え下さい。


【ソース】
霊の次元では立ち戻る、本来のあり方を出す、本来の自分に成る、というので良いと思います。元々完全だという事が前提にあるからです。それに対して魂や肉体は進化を遂げて行く性質のものであり、魂の場合は成長というより成熟が求められます。また魂の特徴としては、癒しという事が必須であるという事です。魂には歪みが生じ易く、アンバランスを来たしやすいからです。それで仏教の教えなどは中道と言って、八正道つまり八つの正しい道、行動や実践というのが重要だと言っています。魂にはバランスや調和が不可欠だからです。その上での成熟度が求められるという事です。

何が成熟さを増させるかと言いますと、経験でしょう。そしてその経験に基づいて愛というのが段々加わって来ます。厳密に言いますと、愛というのは霊の次元であり、愛情というのが魂での愛のあり方です。これらもまだ科学用語にはなっていません。いずれこの課題に再びリーディングを通して、あるいは別の形で釈明する事になるでしょう。

先ずは説明だけをして行きます。愛というのは違う様を認識するという事です。互いの違いを認識するところに愛は生じます。違いを認識しただけでは不十分です。違いを認識した後で、それに意義を見出す。その事で互いのかけがえの無さが自覚されて来て、お互いの存在価値を認められる、それで相手を受け入れられて、互いに違いがあるから世界が豊かに出来る、それが愛だと言えるでしょう。愛は単なる一体感では有り得ません。

さて愛が育つ場合に肉体次元での愛の交流というのがあります。セックス等はそれです。セックスを待つまでもなく、スキンシップというのはそれです。さらに一般化しますと、共に過ごす、例えば「家族が一つ屋根の下で暮らし、同じ食べ物を食べ合う」それも体の次元での愛の交歓(交換)なのです。直に身体を触れ合わずとも、共に同じ家で過ごし、一緒に食事を共にするだけでも、体の次元での愛の交流だと言えるのです。

しかしヒトはセックスやスキンシップだけでは満たされません。それで肉体的な行為に留まらず、お互いに会話をします。それでお互いに心を打ち明け合い、理解し合い、お互いに心の次元で知り合って、癒しがそこで起きます。それでお互いの心の交流、語り合い等で魂の愛情がそこで生じるのです。

さて、それだけでもヒトは満たされません。さらに霊的な次元での愛の交歓、あるいは交流というのが必要になってきます。そこへ導く過渡的な一段階が、意志や理念の一致という事です。理想を共にするという者たちが、ある理念を共有して何かの運動を起こす等です。それは感情という魂のレベルから、意志を共有するという、かなり魂から霊との橋渡しのところです。

そのようなところを経て、霊そのものの純然たる交流というのは、本来宗教の担当するところであり、神体験のようなものがそれです。また互いの霊的な真の理想を共有して、この世の宗教やイデオロギーから自由な下のところでの、お互いの一致や調和というところにまで至ります。そこまで行って初めてヒトは本当の愛をお互いに分かち合った事になり、ヒトは心底霊の次元でも満足出来るのです。

さて霊の次元だけを強調するのも片手落ちです。なぜならヒトには魂も肉体も備わっている三重構造をなしているからです。それでこれからは愛に関しても、霊の次元、魂の次元、肉体の次元、全てで満たされる事、しかもバランス良くそれらが満たされ、調和が互いの間に保てる事、それで霊・魂・体が健全になり、ヒトは健全に進化を遂げて行けるのです。

最終的にはやはり、霊の次元での愛というものに目覚めなければいけません。それは生命を生み出した力だと言えるでしょう。それが神と呼ばれる存在です。そことの一致という事で霊の愛が完成するのです。それで初めてヒトとしてその使命が全うされるのです。そのために互いの違いやそれに基づく多様性というのは、大いにそれを促したり、それをサポートしてくれるものだという事です。手掛かりになるからです。

【質問5
地球学校のカリキュラムについて、お伺い致します。ヒトは最短で30回の輪廻転生で卒業できるというリーディングの指摘があります。30回の転生のそれぞれにおけるカリキュラム(各人生で学ぶべきこと)というのは一体何なのかということをお答え下さい。

【ソース】
これは人によって様々であり、ここが地球上でのいわゆる学校と、地球学校との達いともなっています。つまりこの世の学校では、客観的な予め定められたカリキュラムと、それに基づく制度というのがあって、大学では例えば単位制を取っています。けれども、一方地球学校の方では、そのような客観性というのはあまり窺えません。むしろかなり主観的になっていると言えるでしょう。

先程述べたように戒律や律法に則して、ある模範的なあり方を目指して努力精進する。そして理想的な人格者になった時点で完成を見、それでヒトから卒業できる。それは客観的な側に完成というのを設定していると言えます。それに対して私たちが述べたものは、その人なりの完成があるという事、それは最初に完全であったという事が前提にあるのであり、そこに限りなく近付いて行くという修錬の道です。

もう少し分かりやすくかつ厳密に言い換えましょう。霊の次元では修錬の道が真実です。魂の次元では開展、つまり開いて展開していくという多様性の経験に基づく成熟の道が真実の道です。そして魂の成熟さが起点と終点との決定的な違いであり、成果であります。霊は最初から完成しているのであり、幻想によって自我を自覚してエゴイズムを発していたに過ぎず、それが不要であったという事に気付かせられて、それが最後に落ちた時に、本来の完全性に復帰できるというのが霊の次元での進化の道です。

体の次元での進化の道は、健康とでも言いましょうか、形態上の進化という事、つまり構造上あるいは形態上の進化というのは、ダーウィン以来進化論者が語ってきた事であり、実は体の次元も最初から完成しているのです。それで体の次元と霊の次元は最初から完成しているから、それを正してそこに立ち戻るという取り戻す道です。

魂は開かれて、新しいものを取り入れて、経験を積んでいくというのが相応しい道です。それで魂の客観的なカリキュラムというのは有ります。それで様々な経験が必要になり、それに基づく様々な特性や徳目というのが、確かに厳然と客観的に有るには有るのです。例えば、優しさ、許し、誠実さ、正直さ、実直、率直さ、勇気、決断力、実行力、忍耐等はそれらの一例です。それらは魂の徳目です。客観的なカリキュラムとしても有ると言って艮いでしょう。そのために30回以上は生まれ変わる必要があるのです。

それに対して霊と体は最初から完全ですから、完全でなくなりかけたのを、完全さを取り戻していくための努力だけが必要です。なにゆえ肉体が完全なのでしょう。神の似姿のイメージで造られたからです。動物からずっと続いて来ている形態上あるいは構造上の進化というのは、もう究極にまで至っているからです。それが今のヒトの構造的なあり方です。さて、それが基本的なモデルです。

とは言え、その中において、自分のカルマから、自分の本来の肉体の構造に、歪みや病気を引き起こしているという事は見受けられます。それは魂のカルマに根差した、本来の完全さを損なうという、肉体に対する一つの表れなのです。従って健康になる、あるいは肉体を完成させると言っても、それは別様のものを目指すという事ではなく、あるいはそもそも形態上の欠陥や不完全さを完成させていくという道行きでもないのです。むしろ元々完全で健康体である筈のところが、経験上からそこに歪みや病気を引き起こしているまでの事であり、それを治したり、是正するということで事済むということです。肉体レベルではそういう事が言えます。

従ってこれからのスポーツや体操等は、新しく筋肉を付けるとか、骨格を逞しく頑強にしていくとか、そういう事を目指すよりも、自然態を取り戻すという体育に取って変わられて行くでしょう。またそれが良いでしょう。既に完成しているからです。ただカルマ的に不完全なように、一時してしまっているという事は見受けられます。

さてカルマは魂に伏在する訳ですが、その魂は肉体を造り出す際、カルマが内分泌器官を通して体の構造のあり方を規定します。なぜならカルマは魂に有るのですが、肉体上では内分泌器官に有ると言うべきであり、つまりチャクラというエネルギーセンターに、カルマは肉体上は存在しているのです。それで内分泌器官を通して、つまりホルモンの働きで、体にカルマの印が表れます。

それでカルマの結果で、内分泌腺を通してホルモンの作用を方向付けたり規定する事で、カルマの結果、例えば巨人症に出たり小人に生まれたりという事や、また内分泌腺を通してその人の気質や体質、体型、顔相等を規定しあるいは色付けるのです。それらは変形であり、本来のその人のあり方は、魂が浄化して来るに応じて、本来のその人の器としての体を造り出せるように立ち戻れるのです。それは厳密には進化とは言いません。

このように霊と肉体は最初からそもそも完全だったのです。後で魂が不完全さを露呈して、色々な障害を起こして来るという事です。それを解消するために、様々な経験を積んでいく人生体験が必要で生まれ変わって来ます。それで地球学校は魂の鍛練場だと言うことが出来ます。そのための経験であり、そのための道具としての肉体をまとって生まれてくるという事です。そして魂のところが愛情によって経験に基づきながら、成熟する度合いに応じて、正しい本来の肉体を造り出せるようになり、霊のところの陰りも解消していくのです。それで霊の次元では主観的な自分に立ち返るという道があり、魂には確かにいま言われたようなカリキュラムというのがあります。

その魂の良き属性としての特性、それが徳目として幾つかある訳です。それは一般に良き心の働きとして一般に言われているようなところのものです。それは今ここで一つ一つ列挙するには及ばないでしょう。そしてそれらがかなり有るために30回は生まれ変わる必要があるという事です。しかし霊と体は復元するというだけです。復元するのが結構大変で、それは魂がそれだけ経験を積まなければならないので、30回も生まれ変わらなければならないという事です。

30徳目有るという訳ではありません。基本は愛で括られています。愛が必須科目であると言うよりも、全部が愛で括られる、愛は全体の徳目の言わば共通項になっているという風に見て下さい。それで無条件の愛が完成した時、愛が無条件として完成した時に、全ての徳目も完成したとなり、輪廻転生から免れられるという事なのです。

【質問6
輪廻転生が終了した時、成熟した魂は一体どうなるのでしょうか。それは霊が修錬したものと何らかの形で伴って、次のレベルへ行くという事なのでしょうか。

【ソース】
魂が成熟し豊かになりますと、愛が大きな人になり、個性に輝きや華を持たせます。そうすると、その人は非常に美しい形態を持ち始めます。肉体の完成には限りがあるために、今度はアストラル体が美しく天使のような形態を取り始めるのです。アストラル体は魂の体であり、心の美しさや豊かさは、アストラルの方の体の美しさとなって表れます。心の美しさはアストラル体の美しさとしてそのまま出ます。それが天使と呼ばれる存在です。それで肉体上の完成はあるところまでで十分であり、後はアストラルの方の体の磨きがかけられる方へと、それ以降の進化ではそちらへと振り向けられて行きます。

そしてその美しさは限りがありません。まだまだ先があり、上があります。肉体的にはもう十分であり、そこで輪廻転生は止みます。そしてアストラル体は心の豊かさ、つまり魂の成熟度が、そのままアストラル体の美しさや豊かさとして、そこに映し出されて来ます。そのようにして天使として引き継がれていくという事です。そして自我がと呼ばなくなった時に、他との隔たりを設ける区別の意識が無くなるために、醜さがそこには表れなくなります。なぜならエゴイズムを実体化したもの、それが悪魔だからです。それは醜いものです。醜さをそこに出します。愛は美しく、エゴイズムは悪魔として醜さを形の上では出して来るからです。

動物としても、特に獣や龍という形で、それらは象徴的に戯画化されて来ています。それは龍そのものとか動物そのものという訳ではなく、エゴイズムを根底にして感情が表出した時に、それは獣や龍という形態をアストラルレベルで取るという事なのです。決して動物や龍が悪魔だという意味ではありません。

【質問7
天使のレベル以降の進化のプロセスについて、簡単にお答え下さい。アストラル体あるいはその霊というものは、どういうふうな形で進化していくのか、お願い致します。

【ソース】
この現象世界の裏側に霊界が位置しています。この世とあの世です。俗に言うあの世は霊界の事です。この顕界(現れ出た世界ですが)、この顕界と霊界は一枚の紙の表と裏のような関係にあります。二つの領域と言うより、表裏一体の関係であります。霊界は生まれ変わりの途上の存在たちが、一時向かう世界です。この世とあの世を行ったり来たりするのが生まれ変わり現象だからです。

それに対して生まれ変わりを殆ど卒業したか、あるいは実際に卒業した存在たちが向かうのが天界です。天国とも呼ばれています。そして天使たちが存在しています。その上位の領域は神界つまり神々の住まう領域です。そしてその上が創造主のレベル、そしてその上が絶対界です。絶対界の下が創造主あるいは唯一神のレベルです。絶対者が絶対者であることを一時止めて、創造したり、働きをためしている、そのような活動している絶対者、現れ出た絶対者、動く絶対者、それが唯一神であり、それが唯一神の領域です。一神界とでも言いましょうか。

その下が神々のレベルです。そして神々が住んでいる神界です。そしてその下が天使たちが住まう天界です。天使たちはまだ修行途上であり、しかしアストラル体が光輝いて美しい衣をまとっているように見えます。心が一体であるために、天衣無縫のように一枚織の着物を着ているように見えます。心が一体で傷が無くなって分離感がないからです。光の衣をまとっているように見えますが、それは衣そのものではなく、本人のアストラル体なのです。そしてそれはもう透明であり、完成して有って無きが如くで、だからこそ本人自身には見えず、衣のようにまとっているだけなのです。そのようになってしまいます。それが天使です。

そしてその上位のコーザル体やカラーナ体あるいはメンタル体、今は特にそれら三者を区別しませんが、それらアストラル体より上位の体をまとった存在として有るのが天使です。それに対してさらに上位に進んで神々のレベルに至りますと、アストラル体はもはや無くなります。ただ光として輝くカラーナ体を今度は衣としてまとっています。しかしカラーナ体そのものをもはや自分とせず、それは衣として有るのみであり、その本体としては、霊を元として超意識のような意識でいるという事、プルシャの状態です。プルシャを本体として霊をその本質とします。それが神々です。プルシャの体です。これはヨーガの方の用語です。

さらに唯一神のレベルに行きますと、存在ではなくなります。従って何々体というのはもう上位の次元の体も無くなります。存在が無く、そして無いからです。体が有るという事はどんなに上位の体であろうとも存在になってしまいます。存在である以上限りが有ります。制約も受けます。自由ではありません。どんなに大きくて、成長してきて、美しくてもです。存在は壊れる性質がある、つまり相対的な領域におけるあり方です。神々のレベルまでです。

唯一神あるいは創造主のレベルになると、この世の側から見て存在ではないために体が有りません。それで永遠に続けます。ただ動いているところが絶対界とは達います。同じ存在ですが、この世で存在して動いているために、絶対界では一時存在を止めています。体は無く、霊のみです。そして絶対界はこの世的には無い、だから絶対的には初めて実在出来る。時間も空間ももちろん何も有りません。何も無いから有る事が出来るといったあり方です。

さて各生命体はそこから出て来ました。そしてまたそこに立ち返って行けるのです。最後は絶対者のようなあり方に各生命体は立ち返って行くのです。それぞれに7つのチャクラが有り、備わっており、7レベルをそれぞれ通過して行くのです。チャクラは生命進化の梯子段となっているからです。

【質問8
本日最後の質問です。前回のリーディングに関する質問です。前回のリーディングで、今後のリサーチリーディングは、今後5000年程度を念頭に置いて質問設定するようにという指摘がありました。しかし一方で、西暦3000年頃には地球上では輪廻転生は終了するという指摘もあります。この二つの指摘はどのように関連するのでしょうか。輪廻転生が終了した地球では、リーディングの、例えば文字媒体によるような情報は不要のように思われますが、如何でしょうか。

【ソース】
アトランティス文明期はほぼ5万年間続きました。レムリア文明は約30万年間続きました。アトランティスとレムリアはやや重複しています。アトランティスの方が後です。さてアトランティス以降の文明期間をポストアトランティス期と呼んでいます。アトランティス以降の文明期です。そしてそれが歴史で教えられている人類史です。古代四大文明から始まったというのがそれです。それがポストアトランティス期です。実際そうなっています。その中で、四つの中では古代エジプトがその主軸をなしています。

さてこれが1万2000年間約続きました。そしてこれからはポストアトランティス期が終ろうとしている今、それは西暦1998年に終了する事になっている訳ですが、それ以降はまた新たな文明サイクルに移行します。やはり1万2000年間です。次の1万2000年間のサイクルの礎を置くこと、それがこのリーディングが出て来たことでなされる事です。そのためにこのリーディングが出て来ています。1万2000年間の次のサイクルの礎を築き上げる、その基盤造りのためのリーディングだと見て下さい。特にこれらのリサーチプロジェクトはそれを直接目指しているものです。

さて1万2000年と言いました。特にその前半期の5~6000年間、それは力強く作用する筈です。それ以降はもう常識になりますから、教えられる迄もなく、みな身に付いて来ます。それで1万2000年のサイクルの前半5~6000年間のための教えです。

少し話を戻して話を続けます。ポストアトランティス期はだいたい1万2000年間ありました。それもほぼ終ろうとしています。そして次のサイクルが今や始まろうとしています。その次の新しいサイクルもほぼ1万2000年間有ります。そしてその礎を築く事、それがこのリーディングが世に出て来ている役目です。そしてあなた方はその事に関わる使命があって、あるいは自発的にそれを選んで、ここに集まって来ています。

1万2000年と言いました。けれども1万2000年間これがずっと必要だという訳ではなく、前半期の5~6000年間でそれが力強く作用します。後半の6000年間はそれはもうみな常識となっており、身に付いていますからそのまま行くでしょう。そしてそれが自分たちの中で潜在的に作用していくのです。それが後半の6000年間です。

さてさらに三区分しますと、4000年ずつです。それで前期、中期、後期と分けた最初の4000年間位が、ことのほかこれらの体系や教えが必要となってくるでしょう。そこがしっかり押えられれば後は上手くいくでしょう。それで5000年と言ったり、4000年あるいは3000年と言ったりしたのです。3000年といって四区分しても構いません。ともかく1万2000年間のサイクルなのであり、その内の前半期あるいは初期段階ほど、これらが必要だという事は言えます。これから4~50年でそれらを出し尽くします。そして新しいサイクルを用意します。これらは共同創造になるでしょう。

さて、それらと「西暦3000年頃に、地球では、輪廻転生という事で生命進化が推進されるというあり方は終るであろう」という情報と、どういう関連があるかという問いがあります。そこを見て行きましょう。輪廻転生というあり方で生命進化が計られるというのは、その位で終っていくようになる事はなります。けれども生命存在は地球に生息し続け、学びは続行します。また1000年程度で、全ての生命体がヒトを卒業出来るというところには至らず、残りの者たちが、生まれ変わりそのものではなくとも、この地球上にまた別なあり方で存続していくという事が起こりそうです。

またその頃にはもう、他の惑星との宇宙旅行や意識上での行き来というのが頻繁になっているために、地球を後にした存在たちも、また地球との繋がりでここにやって来るという事もあります。それで教え自体が文字としては残らなくなっても、あるいは文字を通して学ばなくなっても、その教えや体系そのものは波動として留まって、それらは且つ必要でもあるときいう事で、残り2~3000年は続くでしょう。文字は元々生命であり、波動としてそこに残るからです。あるいは留まって必要とされていくからです。

さてそれ以上に重要な事があります。それはこの新しい1万2000年期の始まりに当たって、各生命体及びこの地球に、文字としてその必要な真実の教えを植え込むという、波動として刻み込むという作業です。これは文字に残すというより、地球に刻み込む、言わば地球彫刻のような作業なのです。そのように地球自体をピラミッド化する。というのも、ギザの大ピラミッドは岩に波動として記録を刻み込んであるからです。そのような彫刻物です。それがピラミッドであり、ピラミッドの役割あるいは特質だからです。

新しいピラミッドが必要となります。ちょうどポストアトランティス期の始まりに、ギザに大ピラミッドを建てたようにです。それは1万2000年間機能して来ました。それで新しい1万2000年期の始まりに入り、同様のピラミッドが造られるでしょう。それはギザの地ではなく、地球自体がピラミッド化するという事です。ピラミッド化はクリスタル化をも意味し、火の惑星に変化します。地球自体をピラミッドとして自然のピラミッドに成り、地球に波動として記録を刻印するという事です。そうすると地球が進化を促進されます。また地球自然も蘇生していくでしょう。

このような自然そのものを使った地球規模のピラミッドを造ります。それが新しい記録の宮となります。それで地球と共に、この記録は運命を共にして進みます。それでこの時期に4~50年かけて地球に彫刻する事で、それは地球に生息する生命体や、とりわけヒトの深い意識にそれら記録が刻み込まれます。そうするとそれ以降1万2000年間、その今の50年間に刻み込まれた記録が、各人の意識の中でずっと作用し続け、それが人々を今後1万2000年間は導き続け、育てる効果を放つでしょう。

さて以上の事はチャレンジです。それらがどの程度まで成し得るかは、このリーディングをしている者を含めて、あなた方の今後の取り組み方いかんにかかってくると言えます。
今回はこれで終了します。