2013年1月3日

中学・高校と同級生でもあった今の友達とは、前世でもかかわりがあったのでしょうか?


2011.10.9 パーソナルリーディングNo.12002

【質問1】神さま、いつも本当にありがとうございます。お蔭さまでこの日に63才の誕生日を迎えることができます。16世紀スペインでの前世の影響を強く受けているとリーディングで伝えていただいています。前回の前世リーディングでは、グラナダ、バエサの修道院との関連を伝えられました。聖母文庫の「アビラの聖テレサの旅」では、グラナダの修道院長としてアナデヘススという方の名があげられています。私がこの方だったのでしょうか。又はこの方の後継者の人だったのでしょうか。当時を反省しつつ今に活かしていけますようどうぞお導き下さいませ。

【ソース】今はまだ、断定できず、特定するべき時期ではないので、どちらとも言えません。ただ、感じとして違うように捉えられます。アナデヘススという人物があなた自身の前世の可能性は、小さいです。可能性が全く無いのではありませんが、そうではない可能性の方が大きい感じがします。その辺りのことはまだ、明かされてきていません。当時の状況の真相を伏せる理由や事情などがあるのでしょう。

教会の変遷(へんせん)や歴史というものがあったでしょうし、また、同じ時期でも完全にピラミッド型というより、三、四人くらいの連合制で輪番、あるいは当番制で共同運営していた感じです。それはちょうど、今のARIの体制でもそうなっていることからも明らかです。ARIの主だった地域では、それぞれ経緯も始まった背景も、また、現在の体制や在り方も様々で、ARIでは統制したり、無理に統一するようなことはしません。ある地域では、明らかにお一人の方の下でまとまっています。一方、別の地域では、三、四人から四、五人の方々が、誠意をもって協力し合い、尊び合い、信頼の元で営まれています。

グラナダは、スペインの中南部のアンダルシアにあって、中枢的なとても重要な教会でした。バエサなどは小さいところでしたが、グラナダは町自体も大きかったですし、改革カルメル会の修道院としても大きく、とても重要な拠点でした。アナデヘススという女性がただ一人で全責任を負い、取り仕切っていたような感じはしません。おそらく複数の、三人から五人ぐらいの修道女が責任を分割し、引き受けて協力体制の下で営まれ、当番制があって、順番に責任を引き受けて、まとめていたのでしょう。たまたまある時期は、アナデヘススという修道女が引き受けていたので、それが記録に残っていたもようです。

アビラのテレサという改革カルメル会の創設者や男子カルメル会の清らかで頭脳的にも優れていた十字架のヨハネなどは別として、他のシスターや修道士においては、複数の人達が誠意を持って尊び合い、協力し合って営まれ、テレサやヨハネがやってきて教えを与え、それを受けたり、その指示に従っていたのでしょう。

今はまだ、あなたの当時の名前は、知らされてきませんし、アナデヘススが実際は誰だったのか、も明らかにされてきません。ただ、あなたが当時、一生懸命で、真剣に考え、修行にも打ち込み、よく学んで指示に従い、内観したり、修道院の中でご奉仕をしたりして取り組んでいたことは確かです。あなたは、主だった前世において、どこにおいても真面目で一途で真剣に自分を見つめ、また、「神様を知りたい。神様に出会いたい」、そのような思いを切に抱いて、真剣に取り組んでいた人なのです。

ローマ帝国でも、イスラエル統一王国時代でも、スペインでも、あなたはそのような在り方でした。積極的に周りの信者さんや修行者達を束ねるそのような管理型のリーダーであったというより、まずは一修行者、一信者として熱心に自分を深く掘り下げ、そして「一対一で神様に出会って導かれたい。その確信を掴みたい」というひたすらな思いがあなたの特徴でした。教会や修道院を現実に動かすためには、現実的な面、管理やマネジメント、運営や財務、あるいは料理や衣服などの手配、その他、一つの組織である以上、現実に動かすためには実際的な側面や機能もたくさん必要です。それは、現代においても同様のことが言えます。

あなたは一途で、生真面目で、時には固い面もありました。融通(ゆうずう)がききにくい面もありましたが、その分、正直で、信頼のおける人でした。簡単に周りに迎合したり、適当に合わせて済ます人ではなく、時には手厳しく後輩の人達に教えたり、叱ったりしました。イライラしたり、落ち込むこともありました。しかし、神様の御前で正直で忠実であろうとし続けました。そこが、あなたの良い部分だったのです。

外向的な人でなく内面的な人であり、適当に合わせて、集団生活を楽しんで一生を送ればいいという、その場をうまく生きて済ませるという人でもなく、雰囲気だけで酔いしれる人でもありませんでした。心は純粋で感涙しやすく、ひたむきで一生懸命な人でした。そのような気質や態度、取り組み方や価値観、生き様などは、今もそう変わっていません。いつでも真剣に考え、取り組み、真理を追求し、ひたむきで厳格でした。深刻過ぎる面もあったほどでした。真理を求めるという点では大変積極的で、忠実でした。

人生上の迷いや苦しみ、また、修道院生活上の葛藤(かっとう)などもありました。修道院生活への迷いというより、実際の生活上のことで具体的、実際的によくわからなくて葛藤したということです。具体的な手順とかやり方がよくわからなくてイライラしたり、落ち込んだり、迷ったというようなことです。根本のところでの迷いではありません。根本のところでの迷いとは、「修道院に入ったのは、失敗だったのではなかろうか」といったような悩みや迷いです。そういうものはありませんでした。

しかし、「今日は、どの料理を作ろうか」ということでは迷ったり、「お掃除の仕方が、失敗だったのではないか」というように気にかけたり、という次元の葛藤があったという意味です。また、人との関わりで気遣って、「これで良かったのだろうか」という反省や心配がありました。根本的で重要な真理を一途に求めていながらも、現実の目の前の実際的具体的なところで結構動揺したり、気遣ったり、ハラハラしたり、ドキドキしたり、落ち込んだり、イライラしたり、ということがあったというのが特徴です。しっかりしているようでいてしっかりしていない。しっかりしていないようでいてしっかりしている。そのような特徴のあった人です。

【質問2】6月に「*****教会」のいやしの礼拝にあずからせていただき、○○○○○さん(1947年*月*日生)に個人的にも祈っていただき、涙があふれ感動しました。彼女は、私の中学・高校時代の同級生でもありますが、前世からのかかわりもあったのでしょうか。また、お許しいただける範囲で彼女の前世をお伝えくださいませ。

【ソース】前世でも、何度か関わりがありました。今世が初めての出会いや関わりだったということではありません。ただ、前世で同じところに所属していたことは少なかったです。途中まで、つまり少女時代や思春期は、同門として学びながらも、それぞれ自分の道に向かっていったという経緯は、今世と似通っています。それでも魂の友であり、お互いに啓発し合えるものがある良き関係です。

あなたは、そのお友達に霊的によくしていただいて、感激して感涙したり、感心したりしたということです。それは、そのお友達がりっぱで素晴らしい、凄いということもありますが、見落とせないのは、そのお友達からの働きかけに対してあなたが素直で従順に従い、あなたが感激したり感涙したというそのあなたの資質が尊く素晴らしいという点です。

何かを授ける側もりっぱですが、授けられてそれに感激したり、素直に従い、感謝したり、素直に喜べる。それがまた、同じかそれ以上に尊いということです。それは、講話でも話されているように、頭を下げられる側もりっぱでしょうが、頭を下げる側はそれ以上に素晴らしく、尊い行いができている人なのです。

同様に、人から誉められる人は、りっぱなのでしょうが、人を誉めるという行いができる人は、それにもまして素晴らしく、その人を誉めるという行いが尊いのです。美しい花を見て感動できる。それは、花自体が美しくて素晴らしいということと共に、その花の美しさや尊さがわかるという人。そして、それに感激してそれを素直に表明できるその人もまた、尊く、美しい心を持っているのです。花も美しいけれども、花が美しいとわかって、花を誉められるその人の心が美しいのです。

神様は、そのようなことをとても目ざとく見られ、大切にしてくださいます。それが、スピリチュアルの本質です。そこから本当の神秘体験が始まります。技術的、形式的なものを超えた、日常にごくありふれて見える中に、隠れた秘儀があり、本当の命や尊いものが息づいているということです。

また、おそらくそのお友達は、あなたに対してだからそれができたのです。もちろん、他の人にもある程度、できるのでしょうが、特にあなたに対してはできるはずです。それは、あなたにしやすいからです。あなたと相性が良いばかりでなく、あなたに良いものが宿っているからできるのです。どこに所属していたり、どういう霊的ルーツかということもさることながら、それ以上に本質的なことは、一対一の関係です。

人間はともすると、どのようなルーツか、あるいはどこに所属しているか、さらにそれが正統か、異端か、というので人まで判断しがちで、それに応じた関わり方にして関わったり、付き合いがちです。しかし、大事なのは裸の人間対人間の向き合いです。こういうお名前の神様だから、ありがたく感じて心から平伏(ひれふ)す。別のこういう仏様とか菩薩様だとつまらなく思えて、それほどありがたく思えなくて、形式的にちょっと頭を下げるだけで済ます。そういう関わり方でなく、命対命の関わりは、いつでも真剣勝負であるべきです。純粋であるべきです。形を超えたものが本質の、命と命の関わりです。

そういうものを備えている人、そういうことがわかると共にそれを備えている人と人との出会いで、本当の素晴らしいことが起きます。あなた方二人は、世間体とか、それぞれの背負っているもの、所属しているものも多少、考慮しつつも、一つの命対一つの命、一人の友対一人の友というありのままのところで、無垢の状態で関われるようです。そういうところに気づければ、神様との純粋な向き合いや関わりができるでしょうし、神様が感じられてきて、神様との出会いが起きることでしょう。

そういうことに留意したり、それを大切にすると、クンダリニーとかチャクラとか言わなくても、本当のところで目覚めてきて、それは確かなものです。その上でチャクラやクンダリニーのことも学んで考慮すれば、それはそれで参考になることです。

そのお友達とは、ローマ帝国の前世において、お互いにキリスト様の集いの中であなたが出会い、互いに励まし合ったり確認し合う、学んでキリスト様に付き従う者同士でした。また、スペインの前世において、所属する教会や修道院は異なっていましたが、少女時代にお互いにキリスト様の御教えを学び合い、キリスト様に献身することを誓い合った者同士です。そのお友達は、改革カルメル会には来ませんでしたが、別の教会で学んで献身していました。それがどこだったかというところまでは今、明らかになってきません。

また、イスラエルのARIのグループ転生とは別の時代に、霊的な修行を積んでいたようです。それが、エリヤの時代なのか、出エジプトの時代なのか、具体的なことはまだ定かではありません。

【質問3】前回のリーディングで私の救いは「ほぼ確実」とお伝えいただきましたが、具体的に救いとは私の超意識が顕在意識にまでおりてくるということでしょうか。私はクンダリニーがあがった体験はなく、質問2の○○○さんのように、いつも内からのキリスト様のお声が聞けるわけではありません。2001年5月のリーディングでは私のチャクラは潜在的に発達しているが、あまり開いていませんと伝えられました。私のチャクラの状態も含めて、今の私の成長度合とこれからの留意点をどうぞお教えください。

【ソース】あなたにとっての救いを、超意識が顕在意識まで降りてくること。そのように説明したり、そのように捉えたり、それを目標に取り組むことも可能です。しかし、本質は、救いとは、地獄に落ちないこと。それが救いです。神様から切り離され、神様から拒否されて宇宙を流離(さすらい)い、将来に何の保障もない。それが救われていないことです。救われるとは、神様に嘉(よみ)され、愛され、認められて、神様の懐の中に畳み込まれ、安定する状態。将来まで「大丈夫だ」という保障が得られることです。

あなたが、これからも多くの人達を心から尊び、認め、愛し、配慮するならば、そして、自分も素直で無垢で、本当の意味で自分を大切にし、ありのままの自分であることに感謝し、幼子のようであって周りを配慮して協調して広い世界で、つまり、地球なら地球の67億人が家族であるという広い家族意識を抱いて、少なくともそれを目標に励んでいけば、救いの保障はさらに確実となることでしょう。

また、すぐにそのような自分になれず、嫉妬したり、狭い心になったり、心が不安定になったり、ということがあった場合は、迷わず神様を思い、そして自分のONEの目標に自分を仕向けていって、また努力していけばよいのです。そして、神様を信じて尊び、すがっていれば良いのです。そして、多くの人のことを思いやり、配慮していけばどうにかなります。まず、そのような思いからです。そのような思いを抱くように、励み続けるのです。そして、それが態度や行動にも現れるように、努力し続けることです。すぐにそうなれなくても、それを諦めず、おろさずに努力し続けることが尊く、神様に伝わります。今すぐ実現していなくて無理ならば、誠意だけは示そうとすることです。

内なる声が聞こえることは尊く、格別なことに違いありません。しかし、人の資質や賜物は様々です。声が聞こえることは、滅多に起きません。また、聞こえるようにならないと駄目だということではありません。聞こえるのは、確かに賜物の一つですが、それが一つの絶対の基準ということではありません。むしろ、心が清らかで、他の命を思うということが基準なのです。

クンダリニーが上昇してくる体験は、滅多に起きません。修行者でも、千人に一人いればよいほうです。それが起きなければ、覚醒してなくて駄目だということはありません。クンダリニーの上昇体験があれば、凄いということでもありません。心が清らかで、他の人々や命を思うということがむしろ目安です。

どこに価値や目標を置いて、励むかという重要なことについて今、述べられたのです。あなたは、潜在的な中で、チャクラもクンダリニーも動いているのです。ただ、潜在的な次元だけなので、表にすぐ現れ出てきたり、繋がりにくいということはあります。それでも、動いていることは動いているのです。自分の気持ちで聖なるものを尊び、慕う心があるのはそのためです。人様のことを思い、人様のために動いていくのが、一番正統的で確実な道行です。

全てに神の表れを見ていきましょう。神様や他の命を慕わしく思う心にあなたの聖なるものが宿っているので、それをこそ大切に生きていきましょう。そのような思いを大切にして育んで本務を果たしていけば、それがONEへの道、救いへの道です。あなたの成長や覚醒の度合いは、上の下から上の中へと向かおうとしているところです。これは、かなりの誉め言葉です。

【質問4】今の私のライフシールをお伝えください。

【ソース】ライフシールの真ん中には、川が流れているのが見えます。それは、命の川の流れです。あなた自身の霊的ルーツや生まれ変わりを表すと同時に、縁のある魂達の命の流れ、さらに人類の川の流れ、命の流れをも表します。その下には、『共に生き、共に救いへと向かう』。そのようなメッセージが見えます。

ライフシールの向かって右側には、旗が立てられているのが見えます。そこには、赤い文字で「ONE」と書かれています。そして、その旗をヨハネが手に持って立てています。そして、その背後にイエス様が感じられます。『尊いONEとの出会いを大切に』。そのようなメッセージが見えます。

ライフシールの左の位置には、ヨセフ様と聖母マリア様がおられます。そして、その間で幼子イエス様が安心して遊んでおいでです。聖家族です。その下には、『神の愛は、確かに実現した』。そのようなメッセージが見えます。

ライフシールの下の位置には、ご主人とあなたが見えます。また、二人の息子さん、あなた方のお孫さんも見えます。その下には、『神は恵みを限りなく賜う。その人その人に相応しくしてくださる』。そのようなメッセージが見えます。

ライフシールの上の位置には、天にオーロラが見えます。その下には、『天の徴、地上の喜び』。そのようなメッセージが見えます。
ライフシールは、円の形です。背景色は、紫色です。輪郭の色は、オレンジ色です。ライフシールのテーマは、『主を思う心、命の学び、命の繋がり』。
                          リーディングを終了します。
(ありがとうございました。)
                                    <了〉