2010年12月24日

あの世に逝った人に対し、本当に為になることは?

リーディングNo.11180


【質問1】夫は、4月5日に他界いたしました。以前お伝えいただいた夫婦のライフシールのテーマに「喜びの訪れとなる人と人とを繋ぐ命のリレー」とあり、夫があの世、私がこの世にいて、夫婦で果たす役目があるように感じていますが、そうなのでしょうか? また、前世で夫婦であった時も、夫に先立たれていたのでしょうか? 現在の夫の様子を、お教えください。


【ソース】人が生きていく中で、もっともありがたいことは、神様との出逢いです。また、神様そのものとの出逢いの現れとしての、教えとの出逢いが、もっともありがたい、喜ばしき訪れなのです。


人間の本質は、霊です。心や魂、さらに体も、人には備わっています。体があるからこそ、この世に留まっていられます。その意味で、体は大事です。しかし、やはり人間という生命体の本質は、霊にこそあります。その霊を創造し、生かし、育て、導いておられるのが神様です。人間の本質の霊を直接生んで、司ってくださっている親です。


それゆえ、本当の親に出逢うということが、もっとも喜ばしき訪れなのです。それが魂や心、さらに体にも及んできて、元気になったり癒されたりします。また、いろいろ物理的に、この世で起きてきても、それらに振り回されなくなり、自ずとシャキッとしてきます。


本質のところの霊が、神様とのつながりを自覚していないと、気をしっかり保とうとしても、頑張ったり努力するだけで、無理があります。本質のところで神様に気づき、神様から与えられる教えを、自分の命の糧にすると、それほど自分に言い聞かせたり頑張ったりせずとも、無理がなく、自ずとやっていけたり、起きてくる事の意味も、これまでよりも悟ることができ、自然に受け止めて、応じていけるような態勢ができてきます。神様との出逢いと、そこから出てくる神様の教えを、人は命の糧として生きていくように創られているのです。


神様の導き育てられ方は、ちょうどまずガイダンスのように、一通り説明をしてくださり、それを聞いた者たちが「なるほど」と理解し、うなずいて、受け入れ態勢ができてきたところで、実地に出来事を起こして、試されたり、さらに鍛えられたりしていくのです。また、人生が地球学校であるならば、普段の授業を受けているのが、教えを学んでいることに相当します。そして、学校ならば、テストがあります。中間テストや期末テストのようなものです。普段の授業をどれだけ聞いて身に付けてきたか、テストがあります。


そのように、普段あなたは教えを学んできていたので、今回のような大変な事がテストとして与えられても、きちんと教えを勉強し、あなたの身に備わってきていたので、応ずることができました。あなたの霊や魂の命の糧に、教えがなっていたのです。あるいは、御言葉といってもよいのです。御言葉が命の糧になって生きられるのが人間です。体に食べ物や飲み物が必要なように、そして、心には愛情が必要なように、霊には神様からのお言葉と、霊的な理解が必要です。それによって、霊の部分が蘇生し、次第に態勢が整ってきます。


これまで学んできたので、テストがあったのです。あるいは、カルマや今世の計画からして、今ぐらいの時期に、ご主人が亡くなるようになっていたので、その数年前から、あなたが教えを受けて、自分を備えるように神様がお慈悲と、指導霊たちのチームプレーで、あなたは備えられてきていたのです。


起きる事は、予め完全に定まっているのではなくても、大まかには定まっています。起きる事が大事なのではなく、人間には心もあるので、物理的に何が起きたかということ以上に、心でそれをどう感じ、受け止められるかがポイントです。そのように、人間は内面的な生き物です。同じ事は同じ影響を誰にでも与える、と思ってはなりません。人間は、もっと内面的な生き物です。それが、霊的な成長や目覚めということです。


もし、あなたが苦しんだり、悲しんだりしたならば、ご主人のほうも動揺し、浮かばれなくなってしまうのです。人間は相互の影響で成り立っているからです。必ず自分の想いや感情が、相手に伝播していきます。人間には、知覚したり感じたりする心の働きがあります。さらに無意識もあるので、動物的な本能や超感覚もあって、特に夫婦や親子のようにつながりが深い者同士は、伝播し合います。


あなたが整ってきたので、ご主人を支え、穏やかにするように、あなたは働きかけているのです。その結果、ご主人のほうは今、まだ完全には安らかにはなっていないものの、ずいぶんあなたという妻のお蔭で、あの世で、それほどつらかったり悲しんだりという、心のとらわれに陥らずに済んでいます。


もし、本当に相手を愛していて、相手の為になりたいならば、あまり悲しんだり、起きた事を後悔しないほうが良いのです。しかし、多くの人たちは、相手を思うあまり、悲しんだり、感情に囚われてしまい、その結果、相手の為になろうと思うことが、かえって相手をもつらくさせたり、動揺させる事を引き起こしているのです。愛が正しく働くためには、理性や平静さも必要なのです。


一見すると、愛は感情の一部であるようにイメージされ、感情的に喜んだり悲しんだりするのが、愛の表れだと思われがちです。しかし、どのようにすると相手の為になるのかをよく考えて、平静に対応することが、結局は大切な人の為になるのです。愛が正しく働くためには、知恵が必要です。本当の知恵のことです。そうすると、愛という生命エネルギーが正しく作用し、役立ってくることになります。あなたは、知らず知らずのうちに、そのように整ってきたし、元々は、あなたは感情的なタイプの人だったのですが、自分のタイプを乗り超え始め、いい感じで整ってきているのです。


性格を変えるよりも、霊的に成長することです。そうすると、性格を変えたというよりも、元の自分の気質を乗り超えて、元の自分から自由になって、大きな存在になってきます。あなたは、感情的なものを克服し、知恵に目覚めつつあります。それによって、自ずとしっかりして、動じなくなり、受け止められるようになりました。相手を支えるためには、受け止められる度量を、身に付けることです。それが、本当に相手を支え、大切な人の為になることをもたらします。


そのように自分に器が備わってきた上で、あの世に還ったご主人に対しても、あなたが温かい心で受け止めながら、平静で、神様をしっかり見る眼差しを持って、神様にお祈りしながら、ご主人のことも委ねていれば、本当にあの世のご主人の為になれます。本当に大切な人の為になりたいのならば、このようなことに人々は気づくべきです。そして、そのようなことに気づいている人が、真に賢い人であり、それを行動にまで移せる人が、愛の人なのです。


あなたは知らず知らず、神様によって育て導かれ、そのようなありようになってきました。そこで起きるべき事が起きたので、あなたは何が起きたかを悟り、事態を受け止め、大変だったけれども、対応し、すべてをこなすことができました。ご主人は、あなたによって支えられ、あなたに感心しています。命のリレーは、これからも続いていきます。あなたは、まだこの世で体験するべきこと、果たすべきことが残されています。それゆえ、あなたはまだこの世に留め置かれ、ご主人の分まで、この世で学んだり、励んでいったり、体験していきます。


ご主人は、今世でするべきことを果たし、この世から免れ、解放されました。それによって、あの世に還っていけました。あの世は安らぎどころです。夜の眠りに相当するからです。あの世は癒します。ご主人は、まだ戸惑いもあり、感慨深げな様子ですが、苦しんではいません。まだ少し寂しい感じですが、苦しんだり、悲しんだり、心を乱したり、体が痛んだりはしていません。


この世で共感というのがあるでしょう。本当に心が通じ合っている縁の深い人とは、苦楽を共にするものです。それと同じように、あの世に還っても、この世とあの世との家族は、それぞれ連動し、共感し合っているので、相手の為にも、あまり自分が苦しんだり、後悔し過ぎたりしないことです。お互いに気持は分かち合い、通ずるからです。しかし、本当に自分が苦しかったりつらい時は、自分だけで我慢しないこと。まず、神様と分かち合わせていただくこと。それゆえ、イエス・キリストも『私の頸木(くびき)を負いなさい。私の頸木(くびき)は負いやすく、荷が軽い。代わって背負ってあげましょう』と言ってくださったのです。


あなたは、これからこの世で介護のお仕事を続けながら、多くの人と分かち合いの精神で看てあげ、また、共感がONEであるということで進んで行くことでしょう。それが愛ということです。お互いに苦楽を共感し、分かち合うことで、頸木を負い合い、共に歩むことが愛です。そのような同胞愛を、神様はたいそう喜んで受け取ってくださります。ご主人も次第に、あの世で癒され、あなたのこの世での活躍を、とてもありがたく、微笑ましく見てくださることでしょう。前世でも、何度か夫婦の時がありました。必ずしもいつも、ご主人が先だったということではありません。


古代エジプトの、アクエンアテンからツタンカーメンにかけての時期、夫婦でした。とても微笑ましい夫婦でした。また、日本の飛鳥時代においても、とても仲の良い夫婦でした。必ずしも、ご主人が早くに先立ったということではありません。では、何ゆえ、今世では早かったのでしょうか。それは、あなたが真に強くなり、自立するためです。自分で行えるところまできたからです。また、ご主人には休養が、天から与えられたのです。


あなたは、多くの人たちとの関わりで、これから生きて行く方向に導かれていくでしょう。既に、そのようになってきています。人のありがたさや必要性を、ますます感じていき、愛が何かを、あなたは身をもって、これから体験していくことでしょう。人とは、何でも分かち合っていくと良いのです。そして、ご主人の存在は、もうこれまで以上に、直に感じられることでしょう。あなたが霊的になっていくからです。元々死後の世界に、あなたは興味がありました。それゆえ、貴重な体験を今、受け入れられ、それを背負える時期に与えられたのです。


【質問2】知人のAさんは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症され10年になります。Aさんが心から癒されますよう、病気の原因等を含め、今の状態がいつまで続くのかを、お教えください。また、旅立たれる日までの心の持ち様についても、お教えください。


【ソース】物事が偶然起きることはありません。必ず訳あって、どんなことでも起きてきます。元々、仏陀が悟られた〝縁起の理法〟とは、そのことです。そして大事なことは、すべてに原因があって、その結果として起こるばかりでなく、いわば第一原因、あるいは根本原因は、神にこそあるという認識です。直接の起きることの原因は、当人の前世にある場合が多く、それをカルマといいます。カルマ的因果関係です。本人が想ったり、行ったことの結果が出てくる。


楽しいことも、つらいことも、このカルマの因果にあるため、直接には本人の想い方や、行い方や、生活の仕方、食べ方などが原因です。しかし根本原因、あるいは、霊的な原因は、神様の中にあります。起きることの霊的原因や根本原因は、神様にあるということ。そこに思い至ると、何か安心でき、どんなことでも真の意味で良いことだから、また、必要で、それを受け止めることが、その時点で為になるからと思えてきます。


神様が起こされるのですから、安心ですね。もし、自分が行った直接原因だというカルマだけを見ると、自分の至らなさを反省したり、後悔したり、自分を責めたりということで、自分を追い詰めることになりかねません。しかし、もっと奥に、神様が根本原因として、そのカルマ的な因果関係を上手に運用して、良い方に導いていくように介入してくださっておられるのです。それゆえ、神様はカルマを解いてくださるばかりでなく、それによって育てあげ、愛に気づかせる、いずれにせよ、良い方に引っ張って行ってくださるように事が生じます。


Aさんの場合も、そのような深い目覚めや納得が、心の奥に生ずると良いのです。そのような深い理解や納得が、心の奥に生ずるように、あなたもお祈りをしてあげましょう。また、もしAさんご本人に、そのような理解や受け入れ態勢が少しずつでも出来ているならば、ご本人が「本当のところに自分の本質の意識が気づき、自分が受け入れられるようなありようになっていきますように」と、ご本人が、神仏にお祈りをすると良いのです。


お祈りというのは、口だけの動きではなく、全身全霊で祈るものです。すべての営みです。生命のすべてをかける働きです。すべてを動因して、人は祈ります。そうすると、自分の奥深い部分が理解し、納得し始めます。それによって、起きてきている事の意味が悟られ、受け止められるような態勢ができてくるのです。そうなってくると、エネルギーが流れ始め、カルマが解けていきます。それに伴い、体も心も楽になり、そのような病を引き起こしているエネルギーが消費され始めて、次第に楽で、回復する方向に向かいます。ある程度は、元になるエネルギーが消費されるまでは、つらさや病状は続きます。しかし、次第にエネルギーが動き出し、流れ始めて解け始めます。


逆に、このようなことがまだわからない人たちは「なぜだろう。どうしてこうなってしまったのだろう…」そのように自分を不憫に感じ納得できない、受け入れられないという思い、あるいは心配や怖れで、神様が解かせようとしているエネルギーを止めてしまっているのです。そうすると、体も心もしんどいし、治りにくいです。止めているようなものですから。受け止めて、体感しながら、通過していく構えができてくると、エネルギーが動き出して解け始めるのです。また、神様の純粋なエネルギーも入ってくるようになります。


エネルギーは、流れると良いのです。水の流れと同じです。止めると淀み、濁ります。ちょうど気の流れも、流れると、爽やかで健康です。例えば、人間が健康で快適である重要な条件の一つは、排泄作用です。解毒作用です。良い物を摂る、食べる物でも飲む物でも、体に良い物を摂る、摂取する。もう一つ見落とせないのは、体に溜まった汚いものを排出する作用です。Aさんは、それが滞っています。


浄化が必要です。浄化のためには、野菜を多めに摂取すること。あるいは、もし体力的に可能ならば、生のリンゴだけを3日間摂って、3日目の晩、仕上げのように大さじ3杯のオリーブオイルを摂ること。そうすると、もよおしてきて、胃腸などに溜まっている汚い物が、全部外に出てしまいます。体に溜まった淀んだ物を出すということが、特に彼女には必要です。また、ピーナッツオイルとオリーブオイルをブレンドしたものを、擦り込むように、体に痛みや支障のある箇所を、やさしく、可愛がるようにオイルマッサージを施すと、次第に回復し、楽になります。


前世で、自分を可愛がることをしなかったのが原因です。セルフケアが必要です。自分で自分を認め、自分に愛情を注ぐこと、自分の体を労わるように扱うことです。体にも心があるので、体をいじめ抜くと、体が哀しみ、弱ってくるのです。体の愛情不足です。それゆえ、彼女は本当の自分を愛することを学び、実践する必要があります。たとえ、すぐに症状が回復しなくても、動揺したりせず、以上勧められる方法や心がけを実行し続けてください。また、周りの人たちも、彼女が自分の課題をクリアできるように手を差し伸べ、温かく見守ったり労わってあげましょう。


そして、人生に希望を持つことです。何か2つ3つ、張り合いになること、健全で、自分や関わる人の為になるような目標を持つ、無理のない目標、健全で、ほのぼのとした楽しみを持つこと。そうすると、それが支えになって生きられます。執着するということではなくて、励みになるものを持つのです。あなたも、ただ見てあげたり、治療するというだけでなく、楽しく過ごせるように相手してあげてください。一般に、治療が思うほどにははかどらない理由として、義務的、形式的に治療を行い過ぎていることがあるのです。


人間は、機械的、形式的に処理されて、治療に専心するように仕向けられても、それだけでは治りにくいです。心があるからです。やはり愛情で満たされ、心から納得して、嬉しくなってくると、妙に元気になるでしょう。それが結局は、病を治すことになるのです。くよくよしないように、しかし、くよくよしている人を無理に頑張らせたり、明るくさせるというのも、無理がある時があります。相手をよく見て、お相手してあげましょう。


【質問3】夫ががむしゃらに働いておりました会社「B」を継ぐことになりましたが、これからは、生前、夫とも話し合っていたように、夫婦のライフシールの下側にもあった、無邪気な精神、遊びの精神を大切に、ヘルーパーさん、利用者さんと共に、チームワークを大切にやって行きたいと思っています。経営的には厳しいかもしれませんが、その方向で営んで行って良いのでしょうか。よろしくお願い申し上げます。


【ソース】物事が実際に起きたということは、それが必要であり、真の意味で良いこと、そして、当人がそれを受け止められ、理解し、対処できるところまで成長を遂げてきたことを物語っています。誰においてもそうなのですが、特に神様を信じ、教えを学び、その方向で取り組もうとしている人に起きた事は、なおのこと、今述べられた条件が当てはまっています。


それゆえ、あなたの身にそれが起きたということはあなたが乗り超えられるし、これからは、その新体制で行うと良いということです。人の大切さを認識しお互いに助け合い、持ちつ持たれつで人生は生きていくと良いのです。地球家族というイメージをもって人間は誰でも本来、神の家族である、宗旨宗派を超えてすべての命の親であられる神様の家族であると思えれば、ちょうどマザーテレサのような心境に近付いていきます。それがあなたの理想なのです。


それを実現できるところまで来ました。その方向で事が動き出しています。多くの人たちをうまく巻き込みながら、共々に人との関わりで、これから生きていき、互いに満たされるように関わっていきましょう。


リーディングを終了します。


 (ありがとうございました。) 
  
<了>

2010年12月11日

ヒトという生命体の基本構造、霊・魂・体の三重構造を明らかにする。

リーディングNo.1842

先ず、本日のリーディングの目的ですが、今後数回にわたり、ヒトという種の生命進化の基本メカニズムを、特に生まれ変わりの仕組みの解明という点に焦点を当てて、探っていきたいと思います。本日はその第1回目です。過去のリーディング内容と質問項目が重複する部分がー部ありますが、御了承下さい。

【質問1
生命の基本構造について。ヒトという種は、霊・魂・体の三重構造をした生命体であると指摘されています。そこでこの三重構造に関し以下の点にお答え下さい。
霊・魂・体の定義:霊・魂・体とはそれぞれ何なのか。また可能な範囲で、現在物理で一般的に物質の基本と見なされているトップクォークやボトムクォーク等の素粒子と霊・魂・体という存在とは、どのように関係しているのか、お答え下さい。

【ソース】
霊は絶対的な領域に存します。それに対して魂や体は相対的な領域に属します。そこがまず決定的な霊と魂・体との相違です。体(たい)は肉体のことです。身体と言っても良いでしょう。これについては、いまさらこれ以上述べる必要はありません。そのままその通り肉体のことを指し示すのみだからです。

さて、魂(こん)、つまり「たましい」ですが、それは心の事です。心は科学的な現代心理学の中で扱われる対象になっています。もっとも心そのものを扱っているとは言えず、心の働きを現象面からようやく科学できているに過ぎません。これまでの科学では動いているものだけを測定したり、検証したり、できるのみだからです。したがって、これまでは魂の働きだけを科学できたのが精一杯のところでした。未だにそうです。心そのものは未だ捉えられていません。

心が在るというのは何となく実感としてお互いに感じているだけで、そのような頼りない相互の了解のようなものの上で、心理学が構築されてきているだけです。お互いに見えれば在るというようなところから始まっているということです。働きがあるならば、つまり働きが見えるならば、あるいは捉えられるならば、それは在るというふうに見なされています。働きから入っているというのが、現代心理学の一大傾向を成しています。

行動主義心理学はその最たるものです。それで心理学の中でも、行動主義の心理学が一番科学的であり、自然科学の側からすれば、行動主義の心理学しか科学としては認めていない位です。他の心理学はみな、人文科学の方に入れられています。それはどこか厳密に科学として成立し難いものを持ったまま行われていると、少なくとも科学者からは見なされているからです。

魂の「働き」を科学して来ています。機能の面からそれは認められて来ています。魂や心の存在そのものは未だに立証されておらず。したがって検証も受けていません。それでこれからは、魂の存在自体を科学的に立証するということが求められて来る事になるでしょう。

魂はともあれ心の事です。心と少なくとも見なされているところの実体です。果たして実体として在るのかどうかさえ定かではありません。少なくとも科学においては。ただ働きがあれば存在が在るだろうというふうなところから始まっているのです。火の無いところに煙は昇らないといったのと、あまり差がありません。

しかし私たちは、心は在ると見ています。その心は特に感情として表出します。そしてそれは科学的に扱えるようになっています。意志となると、これは少し難しくなって来ます。心の働きとして意志、感情、思考等といった事でー般に扱われています。あるいはそのように分けて、心の動きが捉えられています。今ここではこれ以上、心に関して探りを入れません。ただ単純に魂とは心の事であり、現代心理学で扱われて来ている対象の事を、私たちは魂として扱って来ているというふうに捉えて下さい。

次は霊に移ります。霊とは私という自覚を引き起こす当のものです。その主体となるということです。後で言及する事になるでしょうが、ここが動物以下とヒトとの違いであります。動物までには霊は備わっていないからです。後で霊が進化のある段階から出て来るのです。それがヒトです。それでヒトは万物の霊長であるとも言われて来ているのです。

皆、生命は持っています。植物でも動物でも。生命体には違いありません。けれども生命体であるからと言って、霊まで備わっているとは言い切れないのです。ただヒト以上の進化レベルに達した時、始めて霊がそこに新たに加わって来るのです。それでヒトの本質は絶対のところに根差しています。それで宗教の方ではヒトは神の子であるなどと言うのです。

さて、この霊は光として科学的には捉えられます。それがために、霊の実体は光であるなどとも言い、宗教の方ではヒトを光の子などとも言うのです。もっとも、霊より下位のレベルでも、例えば魂においても光は放っているのです。ただし魂の方の放つ光は色を持っています。相対的だからです。それに対して霊の光は白です。そこが同じように光を放っていても、魂と霊との違いです。

さて霊は自我という事で捉えられます。霊と自我は同じ事を指しています。同じものを指しているのですが、指し方が違います。それで霊とも言い、自我とも言うのです。霊と言うのは、その在り方としてそれを指す時にそのように言います。それに対して自我という時は、その霊の特色と言いますか、役割からしてそれを自我と呼ぶのです。

さて、この霊とも言い、あるいは役割からして自我とも呼ばれて来ているところのものは、相対的な領域においては無いのです。絶対界においてのみ在るのです。相対界において無いから、絶対界においてはじめて在る事が出来るといったあり方をしています。それで「相対界でしか通用しない科学では扱えない」と言う以前に、全く感知出来ないので、対象外として、そのようなものが在るとか無いとかいう事すら検討されません。

超心理学の場合は、魂の上位の特殊な現象面を対象として来ています。霊の働きや霊そのものを問うという事は、超心理学の場合でも殆どありません。大体科学は現象面を科学して来ているのみです。存在やその本質を科学して来てはいません。宗教現象や神の働き、それらを科学しようとはして来ていますが、現象を生み出す元になる存在を科学する事は念頭には無いようです。

新しい科学はその存在並びにその本質を科学する事になるでしょう。そこへと導くのが、このリーディングの役割のーつとなってきます。そのような新しい科学の方法論を出して行くというのも、このリーディングの役目の一つとなってくるでしょう。新しい科学が構築されるためには、先ずその前に、新しい科学の方法論が出て行かねばなりません。

今の科学の限界は、科学の方法論の限界から来ているからです。それで科学的に扱いようがないというのが現状です。特にこの霊の領域においては、これまでの科学はお手上げといったところです。霊は絶対的な生命の事です。それに対して相対的な生命は、魂の下位の部分です。それはエーテル体とも言います。

さて、霊、魂、体という分け方は、簡略化された分類法です。もう少し厳密に分けますと、自我、アストラル体、エーテル体、そして肉体という四分類法になります。実はもっと細かく分ける事も可能です。けれども今それに立ち入りません。

よく生命と言われているのはエーテル体の事であり、これが魂の下位に相当するのです。それに対してアストラル体の方は魂の上位に対応します。アストラル体は感情体、感情で出来た体の事です。エーテル体はそれに対して生命体の事です。生命科学等はこのエーテルレベルの生命を扱っています。

ちなみに「気」というのは、この生命体と深く関わりがあります。肉体と生命体、つまりエーテル体とのエネルギー交換を起こすのが、いわゆる「気」だからです。それでいわゆる元気になるという事が起きるのです。この辺のところを操作するからです。

このような生命に対して、言わば絶対的な生命というのが在り、それが霊なのです。それで霊のところが動き始めたからと言って、肉体がそのまますぐ元気になる、という事には繋がりにくいのです。生命として存続させている元になるもの、それが霊なのです。そのような生命です。それに対してエーテル体の方の生命というのは元気が出るとか、元気が無くなるとか、健康になるとか、そういったレベルの生命なのです。

科学の方で生命と言っているのはこちらの方です。霊の方の生命は普通生命とは思われにくいものですので、生命と言ってもあまりピンと来ない筈です。その生命体そのものを存在として成り立たせている不可抗力とでも言いましょうか、それが霊です。それは何ゆえそのようになるかと言いますと、私という自我の働きに因るのです。私というふうに思わしめているところの、それを支えている力とでも言うもの、それが霊なのです。そして、それが輪廻転生をも起こします。

さて、最近の物理学における素粒子等との関わりですが、人間は言わば電気的存在です。霊、魂、体の構造については、以下の項目で言及されますが、ここでは定義と言う点で少し見て行く事にします。身体、つまり肉体に関しては、リーディンクとしてあまり語るほどのものは無く、現代の科学に委ねられて行きます。それでリーディンクとしては、霊や魂のところで、物理学の方で解明されて来ているものと、どのような関連性を持っているのか、と言うのを少し見て行き来しよう。

魂は先ほど上位と下位に便宜上分けられ、上位がアストラル体として構成されており、下位の部分はエーテル体として在ると述べました。エーテル体は魂を保持する力です。エネルギーの源と言ってよいでしょう。魂のエネルギー源がエーテルです。

さて、エーテルという言い方は現代科学におけるエーテルとは、同じ用語でありながら別様の意味を持たされています。したがってエーテルと言う場合、学問の方でのエーテルをそのまま当てはめてはいけません。その辺のところはリーディングでまた検討される必要性が出て来るでしょう。今はそれに立ち入らず、定義のところから必要な事だけを述べます。

アストラル体は感情によって創られている体の事です。したがって、この感情によって創られている体が、物理学の方での物質の構造のあり方と、そのまま対応するという事にはなりません。いわゆるあの世とか霊界とか言われている領域、そこで皆持っている体、その体を構成しているのがこのアストラル体だと思って下さい。俗に言う幽霊が持つ体がアストラル体だと思って下さい。心霊科学ではこれを主な対象としています。

そしてそれが元気になったり、衰えたりするのは、それを支えるエーテル体によると見て下さい。霊界の存在たちの体の構造がどうなっているか、それが魂の体がどうなっているかという事なのです。

これはどう見ても、普通の物理学で扱う物質の構造のあり方と同じとは思えません。そもそも物理学の方で物質の構造を解明して来ているのは、物質の構造である以上、それは体の次元に限定されている訳です。物理学の対象はその通り体の次元に特定しています。そして、そこの体の次元での構造のあり方に、探りを入れて来ているという事です。

したがって心の領域、つまり魂の次元には、そのままそれが通用するとは思えません。ただしかしながら、関連性は魂と肉体レベルの間にはあります。その関連性を後に見ていく必要があります。魂が原因であり肉体が結果だと私たちは見ています。魂が肉体を造り出すという事です。したがって、原子の構造、あるいは配列が魂と肉体との間で共通しているという事にはならず、むしろ両者の関連性はあるのですが、その関連性の内容は因果関係だというふうに見て下さい。

どういった因果関係かと言いますと、作者と作品といったような因果関係です。魂が顕在化したのが肉体というふうにも言えます。それで魂の方は潜在化している肉体、肉体の方は顕在化された魂という事です。肉体は魂が物質化された言わば影です。魂が現象化してきたところのもの、それが結果として、最後に肉体という結果を結んでいます。

直接、魂の構造はどうなっているかという結論を、人は知りたがります。けれども私たちはむしろこのような関係性から探りを入れていき、人々にその関道性の中で、両者の関わりのプロセスを見させるというところで、何かが生み出されて来るというプロセスに着目させるところに、私たちは力点を置いているのです。

これがおそらく科学的な探究をする人間の科学者と、私だちとの決定的な違いでしょう。そこが学びとなり、あるいは上位の意図がそこに在るからです。常に学びであるという捉え方です。

リーディングも、したがってそのような方向でなされていく事になるでしょう。それでリーディングでは、質問してすぐいきなりその答えが正解として出るという事はあまりありません。プロセスにおいてのダイナミックな創造というものが、各自の中でプロセスを通ることで起こるという事が目論まれているからです。それはゲーテが強調したところのものでもあります。私たちはゲーテ学者ではありませんが、真理の一端をそれは伝えているという事です。

さて一項目めが少し長くなり過ぎています。それで結論を急ぎます。魂に関しては、クォークを始め、電子やニユートリノといった構成因子から成り立っている、ということは無いという事です。感情の作用がカルマとしての構成因子です。このように魂の構成因子はカルマというのが結論です。つまりその生命が営みをなし、その営みがそこに潜在的なエネルギーとして留まる時、その留まり方に応じて、それに相応しいあり方をそこに起こすという事です。

さて霊の方のあり方ですが、これは絶対界に在るために、最初にお伝えしました通り、相対界では無いという形で、つまり存在しません。存在しませんと言うより存在出来ません。絶対界において、したがってそれで始めて在る、つまり実在出来ているという事です。絶対界を科学的に扱えるのはいつの事になるでしょうか。とりあえず今回のリーディングでは、この一項目めはここまでとします。
次どうぞ。

【質問2】
霊・魂・体の存在理由についておたずねいたします。霊・魂・体はそれぞれ、なぜ存在しているのか、お答え下さい。

【ソース】
先ず霊から入ります。霊がなぜ存在するかというのは、少し宗教的な表現に先ずなってしまいますが、神の同伴者として存在すると言っておきます。神のパートナーと言ってもよいでしょう。神は本来絶対的なあり方として存在しています。

さて同伴者という言い方をしました。それと共に、ここでもやはり因果関係が両者の間に認められます。神が親ならヒトの本質である霊はその子です。そのような親子関係が、という因果関係がお互いの間には見出されます。

さて神と言ってしまいました。いずれ神とは何かという事を、神そのものを科学するという事が、最終的になされてくる時が来ます。とりあえずその神を科学的に解明するまでは、従来通り神という事で、ここは一時通過させてもらいます。

創造主というのは、絶対的な本来の神が創造という役割を果たす時の、神の別名です。したがって創造主と神は同じですが、しかしどこでその方を見ているかによって、神と純粋に呼ぶか、あるいは創造主と呼ぶかが違ってきているという事です。同じ方なのですが、一つにしてはいけません。

神は創造を起こしますが、創造を起こさない以前の神が本来のあり方だからです。したがって神をそのまま創造主と置き換えてはいけません。創造するというのは神の一つの属性です。そしてその働きのところで、ヒトというのが始めて登場して来たというふうに見て下さい。

それで、本来神とヒトは関係ありません。後で関係が生じるようになったと言うか、もう少し正確に言い換えますと、神はただ神です。ただ神には物や生命を造り出すという属性も在り、その時に物を造り出すという事の働きから、その面の神を創造主と呼ぶのです。

そしてそこで造られた側から見て、神を父とか創造主とか呼んでいます。あくまでヒトから見ての父です。神はそれ以前に神だからです。人間を造り出した時点で、造り出されたヒトから神を父と呼ぶに過ぎません。関係性から父と呼ばれるだけです。その関係性を自覚した時、ビトは神を「父なる神よ」と呼ぶようになったのです。創造するのが神の全てではないという事です。

さてその創造されたものは何でしょう。それがヒトの霊のところです。それが神によって造られたところのものです。ではヒトの魂や肉体は創造されなかったのでしょうか。神によって直接は創造されませんでした。神によって直接創造されたのはヒトの霊のみでした。霊の部分のみです。部分と言いましたが、これは厳密な言い方に適っていません。

この世の言葉で、ピッタリと適当に表現するのは困難を窮めます。霊、魂、体とそれぞれの部分部分が在るわけではないからです。部分部分同士は並列の関係に過ぎないから、霊の部分という言い方は相応しくないという事です。そのように捉えると非常に正しく把握するのを妨げてしまうという事です。

さて今は存在理由ということで見ています。霊の存在理由は、神が神としてあることを止め始めた時から、創造という業が行われるようになり、それで同伴者が造られた。そしてそれは神が神自身に向かい合うという願いから生じたという事です。それで霊が神によって造られ、神は鏡に自らを写し出すように、ヒトに向かい合うようになったという事です。

霊はヒト以上にしか備わっていないという事は先ほどお伝えした通りです。神は私であるという自我を特徴とします。それでヒトは私という自覚を動物と違って持っているのです。そしてそこからカルマを生じる道が開かれ、個別性が生じ始めました。そしてカルマの営みが、自我が備わった時点で始まり、それでヒトは魂を造り出すに至ったのです。霊は神が造られましたが、魂は自分の霊が造り出したものです。そしてその魂が更に肉体を造り出しています。こういった順序であり、関係性が相互には見出されます。

それで、魂の存在理由は霊の働きの結果、魂が生じたという事なのですが、存在理由としては、霊の乗物というたとえが相応しいと言えます。食べ物があればそれを盛る器が必要となってくるようなものです。果物があればそれを載せる皿のようなもの、その果物と皿との関係が、霊と魂との関係に近いと言えます。

また霊を機能させるところの一段下位の粗雑な現象界での霊を機能させる当体、その正にそのもの、それが魂です。更にそれを下位の次元に下ろして来て、物質的な現象世界の中で魂は更に示すために、肉体が新たにさらに魂によって造り出されたという事です。

また肉体があって、始めて魂がその中で機能できるという、それを支えるために肉体が魂のために在る。逆にその必要性があって魂が肉体を造り出した。そのような相互依存関係が魂と肉体との間には在ります。必要で自分を生み出し、必要で自分から、より下位のレベルのものを生み出した。そしてそれが自分を支えてくれるようにもなってくれている。そういった相互関係です。

魂と肉体の関係ばかりでなく、霊と魂の関係もほぼそのようになっています。ただこの両者の間には絶対と相対という決定的な隔たりがあります。それで厳密に見て行けば、必ずしも霊と魂、魂と体の関係は同列ではありません。霊と魂の関係は、原罪と呼ばれてきているものが介在しています。これは宗教の神話の一部です。自由な創造から純粋に霊が魂を造り出したのではなく、そこにミスがあったという事で、霊から魂が造られたと言うより、造られてしまったと言うべきです。

そしてそこから輪廻転生ということが、ヒトの生命進化には付きまとうようになってしまったのです。この項目に関してはここまでとします。
次どうぞ。

【質問3】
霊・魂の構造についてお伺い致します。霊や魂は、体がいろいろな内臓や器官から構成されているように、さらに一定の構造をもっているのでしょうか。霊や魂の構造というものがありましたら、その基本構造をお答え下さい。

【ソース】
心の働きあるいは営みと言っても構わないと思いますが、それらが魂としての体、魂の体です。それを構成しているところのものです。働きや営み自体が、それを構成する元になるというのを、東洋の宗教ではカルマと呼んでいます。カルマによって魂は織成されているという事です。もっともここで言うカルマは広義のカルマであり、一般的な意味合いでのカルマだと見て下さい。もちろんその中にはいわゆる狭義のカルマも含まれてはいます。

カルマは本来働きという一般的な意味を持っているに過ぎません。そのようなカルマです。働きがあるとそれは何らかの結果を結ぶはずです。行為をなすと何らかの結果を生み出します。そしてそれは行ために相応しいもののはずです。そしてそれがまた元になって、次の行為がなされます。行為の連鎖関係です。

先の行為が後の行為を規定し、あるいは方向付けて行きます。そのようにして、それ特在の個性というものがそこには自ずと出て来ます。それで皆心が違います。興味や関心、恐れやその魂なりの卓越性、あるいは弱点、そういったものが段々際立って来ます。

そしてそのような事の始まりは、同じく魂の中の意志と言われてきたところの働きです。その意志が、いちばん霊から近いところに位置する魂の上位の働きです。そして意志から衝動や動機付けというのが生じます。思考作用というのは、意志のもう一方の側の働きとして生じています。思考から認知という事も出て来ています。

さて心の働きは一般にハートという事で、胸の辺りの心の動きというようにイメージして捉えられがちです。それはむしろ生理的な面からのものです。ところが心の元は胸の辺りよりも、脳の方に関連があります。それで脳との対応でいずれ見て行かねばなりません。

なぜなら魂というのはかなり体の中の脳との繋がりがあるからです。繋がりがあるとだけ言いました。脳や胸の辺りでの実感や感覚が、即、心の働きだと言うわけではないからです。と言いますのも、脳は心の働きや思考作用と関連性はありますが、脳が働きを起こしている訳ではないからです。

さて霊は完全に肉体から自由です。規定されていません。霊の構造はどうなっているかと言いますと、相対的な領域ではそれは無いという事ですから、捉えようがありません。相対的な領域で在るものは、たいして在るものではありません。本当に実在する訳ではない、頼りない在るというあり方です。

相対的に在るものは、絶対的に在ることは出来ません。相対的にしか在ることが出来ない程度だからです。それは依存関係において、かろうじて存続しているのみだからです。それに対して絶対界で実在するというのは、本当に在るという事であり、相互に支えて始めて成り立っていられるという性質を超えていきます。

だから条件や状況如何に関わりなく、常に在り続けられるのです。時間や空間の制約を超えているから、常に在ることが出来ます。現象世界はカルマの世界です。それで霊のあり方というのは、ただ在るということで在るというあり方です。それで常に在り続けられます。

在り続けられると言っても、いつからいつまで続くという意味ではなく、絶対的に続くという事です。時間の制約を受けていないという事です。大きさや規模も言えません。空間を超えているからです。空間的なあり方から自由で、規定を受けないから、規模や大きさや方向や形というものから免れています。勢い構造と言っても、霊の構造は規模も形も色も長さも無い訳ですから、相対的な側から言えぱ、はかりようがありません。しかしだから実在出来るという事です。

哲学が一体いつになったら、科学として扱えるようになる事でしょう。
次の質問どうぞ。

【質問4】
霊・魂・体の相互関連と関連のメカニズムについてお伺いいたします。霊・魂・体はそれぞれ、どのように相互関連しているのか。それぞれが、それぞれに働きかけるメカニズムというものはどのようになっているのか、お答え下さい。

【ソース】
これは一部すでにお答えしています。それらにいくつか付け加えましょう。既に述べた通り、霊が魂を造り出し、更に魂が肉体を造り出しているという関係性が互いにあり、また成立順序も神から霊、霊から魂、魂から肉体というふうになっています。つまり互いの関係は因果関係にあるという事です。そして上位から下位へというふうに、下りて来ているのが分かります。

さて、この上か下かというのは、科学的にどういうふうに見るべきでしょう。なぜなら私たち、並びにこのリーディングをする主体となっている者は、哲学的な捉え方になっており、科学的に捉えるというのに慣れていないからです。それで私たちも試行錯誤を繰り返しながら、多分に哲学的なこれまでの課題を、科学の方へと方向付けて行くかと思います。そのように捉えて下さい。

上位か下位かというのは哲学的な捉え方だったのですが、科学的にそれをどのように見なすかと言いますと、先ずその前に、その途中経過として哲学的に見ると、質的なことだというふうに言えるかと思います。また創造の順序の先か後かというふうにも言えます。それでさらに科学的な哲学というところから、哲学的な科学という方に移行させ、そして最後に純然たる科学というふうに持っていくように、どうか導いていくように努めて下さい。

それで段々その辺を見ていくのですが、先ず科学的に捉えれば、それらの辺りは、発生順序が先か後かというふうなところで捉えられるかと思います。また因果関係というところからも捉えられるでしょう。

さてこれまでの科学は、事実を解明するというところに、殆ど忙殺されてきているように伺えます。結果としての事実を科学するという事です。それに対して哲学の使命は、なぜそれが出来たのかというその経過を問います。それで意義というものや意味というものも、そこには当然問われるものに含まれて来るのです。

けれども科学の方では、少なくともこれまでの科学では、なぜそれが出来たのかとか、それが在る意義とか、そういう事は科学の対象にはして来なかったのです。これまでの科学はただ、事実がそうだからそうだという事で、それがどのようにして出来てきているのかというのさえあまり問わず、ましてそれの意義とか、価値とか、意味とかは科学の対象外だったのです。

結果を科学する、事実を問わず、ただ事実だから事実だというのから出発する、そしてその現象を検証しながら、その主に因果関係を明らかにしていくというだけだったのです。なぜでしょう。これまでの科学は、人間の生活の便利さに資すると言う、そのために科学が始まったという科学の歴史があるからです。

科学のために科学をしてきたのではなかったのです。人間の生活の便利さのために、先ず技術というのから始まりました。道具としてです。そして生活を便利にするために、事実の主に因果関係を明らかにするという事、そしてそれを応用していくというのに留まって来たので、あまり哲学というものがそこにはなく、それで地球環境問題というのが、ここまで深刻化して来ているのです。

それで、これからは技術のための科学ではなく、科学から始まって、そこから技術が出て来るというふうにすると良いでしょう。この機会に、このような時期に、時代にです。

霊・魂・体の相互のメカニズムと言いますのは、ちょうど科学と技術との関係のように、理論とその応用というのに近いと言えます。それが言いたかったのです。魂がなぜ在るか。それは霊の道具として造られたのです。体がなぜ在るか。魂の道具として、あるいは応用として造られたのです。

それで魂が科学なら、体はそのテクノロジーに対応します。さてこの対応関係は厳密ではありません。元々たとえというのは厳密ではないからです。ただ非常に象徴的には文字通り解釈するよりも、何か文字通りの解釈では伝えられないものを伝えられる場合が多いのです。そのようにご承知おき下さい。

後にもっとダイレクトに説明出来る時が来るかと思います。今はこの項目に関してはこれで通過する事にします。
次どうぞ。

【質問5】
ヒトとは何かという事についてお伺いしたいと思います。生命進化の一形態、あるいは生命進化の一プロセスとして、ヒトは、ヒト以前(これは動物ということだと思いますが)とヒト以後の存在と一体何が違うのかお答え下さい。特に霊・魂・体それぞれの次元において、ヒトをヒト以前及びヒト以後とから区別するものは何かをお答え下さい。

【ソース】
動物までの進化段階においては、霊というものが備わっておりません。ヒトから、初めて霊というものがそこに新たに加わって来ています。その辺のところを、宗教は象徴的な神話やたとえを持って文芸的に表現して来ています。それで例えば、キリスト教やその前のユダヤ教においては、ヒトは神によって創造されたというふうに言っているのです。

なぜ鉱物や植物や動物と同ように、ヒトが被造物の一種として、あるいは一部として創造された、と言わないのかというのはこの辺りに理由があるのです。ヒトだけが特別で、神のイメージに合わせて創造されたとわざわざ言うのは、ここに理由が在るのです。

広い意昧では、全て万物が神によって創造されたという事ですが、ヒトだけを特別に神の似姿で造られたというふうに言うのはこの事です。その意味でヒトは確かに特別だと言えるでしょう。

ところがそれを大分取り違えて、自分勝手な解釈を施して、人間優位の世界が造り出されました。それで自然がそのために使われる事になってしまったのです。そのような事を言っていた訳ではなかったのです。

さてヒトは霊を与えられました。それで初めてヒトに成れました。けれどもヒトはその霊を与えられて、それが機能し始めた時、働きとして霊が動き始めた時に、自我という実体として、ヒトは自らの霊を感知しました。存在そのものとして実感するよりも、その働きからして霊を自覚できたのです。それが自我です。具体的には私という自覚です。それが霊をヒトが自覚した時の特徴となっています。

それで霊は初め自我として働きを為してきた時に、エゴという形で出て来たのです。そしてそれはカルマを生み出しました。そして魂がそこで造られ始めました。動物までも魂は在ります。しかしヒトはここから魂がカルマによって彩られ、あるいは規定され始めたという事が言えます。

その分カルマを積極的に捉えるならば、魂を豊かにする道も拓かれるようになった、と積極的には言うことができます。魂のレベルで自我が動く時、それは主に愛情ということで感知されます。

さてヒトとヒトより上位の段階の生命との際は、ヒトは霊が与えられ、自我という働きとして、それを捉えられているけれども、その自我がまだ未完成であるというところがヒトです。自我がこのように与えられているけれども、未熟なうちをヒトと言うのです。それがヒトの定義です。

自我が一通り完成するとヒトではなくなります。そして次の段階へと進んで行けます。この自我が在り、しかし自我がまだ未完成なうち、この自我を育成するべく、生まれ変わりという特在の現象が、ただヒトにだけ起こり得るという事です。つまり生命進化のヒトという進化レベルの範囲の中で、その進化を促進する方法として、生まれ変わりという現象が見出されるという事です。

自我がなければ輪廻転生出来ません。自我が完成すれば輪廻転生する必要性が無くなります。自我があって、しかし自我が未完成なうち、生まれ変わりを通して自我を完成させようという動きが働いています。それで自我が完成すれば生まれ変わりが止み、ヒトを卒業できるわけです。

主にこのヒトの生まれ変わりを通しての生命進化のための場が、地球という惑星なのです。地球には他にいっぱい生命が生息してはいます。けれども今はこの観点から述べてみました。地球の存在理由や意義というのには他にもいっぱいあるはずですが、今はこの観点からのみ述べたという事です。

さて自我は未熟なうちはエゴイズムとして出、完成に近づいて来るにつれて愛という形で出ます。私という自覚が生じ始めたころは、自分を守り他を排除する、そして自分を成立させる、という形で自我が表れるのが特徴です。

それに対して、そういう事ではいけないということで、段々自他の間の一体性の摂理に気付かされるようになり、そのためにカルマの法則が作用を及ぼすのですが、それを通して次第に自我が育成され、エゴが愛という形で出て、無条件の愛というところに至って自我が完成したとなり、ヒトである必要がなくなり生まれ変わらなくなります。

生まれ変わる生命体、それをヒトと言います。生まれ変わらない生命体、それはもはやヒトとは呼ばず、またヒトの形態をも帯びてはいません。自我が加わると霊が変わり、自我が働くようになるとヒトの形態を取る事がはじめて出来るのです。しかしヒトを見て、ヒトとしてあるうちは、自我は在るけれども、まだ自我は未完成だという事を、そこに見て取りましよう。

この質問に関しては、今はここまでとします。同時にこのリーディングもここで終了致します。

リサーチ・プロジェクト(第2NSプロジェクト:その1)
1996.10.12