2011年4月20日

東北関東大震災と、福島原発事故が起きたことの意味


2011.3.15 リーディングNo.12189


【質問1】2010年2月19日に取られたNo.11598のメッセージ・リーディングで「2~3年後から、3~4年後には、日本にも大きな地震が起きる可能性があります」と予言されました。今回の「東北地方太平洋沖地震」がそれに当たると捉えておりますが、世界最大規模の地震と津波の災害になった天の意図をお知らせください。


【ソース】昨年行われたメッセージ・リーディングの中で、数年のうちには日本に大きな地震が起きることが予言されました。果たしてその通りになりました。どうしても起きる事というものがあるのです。大きなカルマがあったり、神様が定められたりした場合です。もちろん神様が定められた場合は、神は善きお方ですので、善なる意図を持って人間のために起こされるということになります。人間の側からすると忌まわしい、大変な災害ですが、それが今の時人間に必要で人間のためになるのです。


人間は未だ不完全なため、自分の実感が真実でない場合が多いのです。人間が期待したり、起きて喜んだりすることが、本当に良いものとは限りません。逆に人間ができたら起きて欲しくない、また実際に起きた時悲しんだりつらい思いをする、そのことが悪いとも限りません。


それは人間が神様とのズレがあるため、自分の実感が正しく働いていないからそのようになるのです。そのため人間が主観で良いとか悪いとか、嬉しいとか嫌だとか、そのように感ずるものは必ずしも正しくないので、神様が愛を持って起こされた事でも、まるで悪魔が起こされたように感じてしまうことがあるのです。


人間のほうがいい意味で自分を疑い、自分の囚(とら)われから解放されれば、真実を正しく見る眼(まなこ)が開かれてきます。そのような謙虚さや素直さ、柔軟性が求められます。そのような態勢ができてくれば、起きることを厳(おごそか)かに受け止められ、自分の考えや感情ややり方に固執せずに、自分のほうこそ変えていって適切に応じて対処し、その結果問題が解決していくのです。それが成長していくということ。また魂が浄化されカルマが解消していく道です。


ただ人間は自分のものを強く持ち、習慣性のものがあるので、自分を変えたり自分の非を認めたりすることは、自我の死を意味するので大変怖く、またつらいことです。それが試練の特徴です。


イエス・キリストは自分の自我に死んで、完全な存在となって復活されました。主の歩まれた道は自己否定の極(きょく)です。極(きわ)みです。それによって本当に神によって甦らせられ救われていく。そのパターンと模範をイエス・キリストはやって見せてくださりました。その自己否定の死が、魂の死が、十字架で象徴されるのです。そこに人間の救いがあります。


今回の大きな出来事で、特に日本人が自己否定という死の恐怖とつらさをくぐり抜けることで、その代償として得がたい魂の浄化と育成が与えられようとしています。それが天の試みと意図です。ひとえに人間を愛する神の善意に基づいて起きた事なのです。


日本人に、今ごろの時期それがどうしても必要になって来たので、日本人の気づきと浄化と鍛錬のために、その大きな事が起きました。これによって悪魔が起こしたのでなく、神が起こされたことがわかることでしょう。予言をしたのは予(あらかじ)め気づかせ、備えさせるためです。また、御神意によって定められ、どうしても起きざるを得ない事だったので、予めメッセージ・リーディングの中で知らされていました。


ニュージーランドの地震から前兆が始まっていました。外国でありながら、多くの日本人の死者が出てしまっていたのです。ニュージーランドの地震の直後に取られたメッセージ・リーディングの中でも、あと1、2年のうちに、日本に中規模以上の地震が起きる可能性が高いこと、それは恐らく太平洋側で起きること、場所は言えないことなどが、先日のメッセージ・リーディングで明かされました。果たしてその少し後に、東北地方に大地震が襲いました。やはり太平洋側でした。


「2011年3月がペンテコステが成就する時であり、本当に始まる時である」と少し前から伝えられ始めていたのです。会報誌への掲載の順番からして、イタリア・バチカンツアーの内容は2011年3月号となりました。『甦る親鸞』の本も2月の末に出来てきました。玉美もその時期に学校を卒業し、ARIに入社しました。2011年の3月が始まりであり、ペンテコステが成就する時であると周りの人たちは聞かされていたので、さぞかし喜ばしい嬉しい事がいろいろと3月にはあるのだろうと期待していたことでしょう。


確かにそのような喜び事や神様の徴(しるし)がいくつか、3月前後に起き始めていました。しかしその一方で、喜ばしく嬉しい神様の純粋な御光(みひかり)を感じさせることの対極を成す、最もその神様の純粋で喜ばしい至福感からほど遠い事が同じ3月に起きたのです。これが神様の試みです。


ヨハネの黙示録を見ると、忌まわしい大変な災害と神の愛の御業とが別々ではなく、相関連させられ同時進行で起きるように記述されています。カルマが顕在化してくると、そうなるのです。もちろん神様ご自身は、純粋に善と愛と智慧のお方です。そのことに違いはありません。しかし先ほども述べられたように、人間の側は神様とズレています。不完全で偏(かたよ)りがあり、汚れがあります。カルマも作っていて、果たすべきカルマがいっぱいあります。


そのため純粋な神様が、人間のために働きかけてくださると、灰汁(あく)出しのようにその身や身辺、周囲にいろいろ忌まわしいこととして事が生ずるということがあるのです。人間のほうも純粋ならば、純粋な神様が人間に働きかければ、素晴らしい事や至福感が出てくることでしょう。それが人間が完成した場合です。


しかし今のところ、まだまだ人類にはカルマも汚れも偏りもあるため、人間に神様が愛と善をもって働きかけると人間の中からいろいろと困ったものが起きて、つらさや悲しみが伴うということがあるのです。しかし人間はそのことに思い至らないので、神様が働きかけて善き目的のために起こしたとはとても思えません。実感としては、悪魔が起こしたように思えてしまうのです。あるいは誰かのせいでなったと感じます。


例えば、アメリカの同時多発テロが2011年9月11日に起きた場合、「イスラムの原理主義の者たちが悪い、自分たちはひどい目に遭った」と実感してしまうのです。イスラムの原理主義の人たちにも問題はあったことでしょう。しかし、なぜそのような目に遭わなければならなかったかというと、自分たちにも似たような課題やカルマがあったから、問題のあるイスラム原理主義の人たちと関わって大変な目に遭うということが生じたわけです。


このように人間の世界では、純粋な神様のお働きが大変な災害や、つらさや悲しみと同時進行で織り成されていく特徴があるのです。そのため2011年3月という今の時期も、ペンテコステの成就によって、素晴らしい始まりの徴がいろいろと顕れると思っていても、神様はカルマを現して解いてくださるので、またその時それを使って試練を与え人間を訓練されるので、訓練は当座は好ましいものと思えないため、本当に神様のお働きかけかと疑わしく感じてしまうのです。だからこそ、それが試みにもなるのです。


それゆえ普段から自分をよく見つめて神様に祈り、自分を委(ゆだ)ねていないと試みに不合格になってしまいます。正しく現象を受け止め、対応することが必要なのです。そのためにお祈りや教えが人間には欠かせません。神様はそのために、お祈りや瞑想や教えを日頃与えてくださっているのです。


また、アメリカ同時多発テロの10年後の、1年の裏日3月11日に起きたことで微を示してくださったり、ヨハネの眼の手術日1月13日と同じ数の日で表してくださったのです。いよいよ事が起きた時は祈り、そして教えを思い出して指針として厳しい現実に対応しましょう。


広島や長崎に原爆が投下された時も、日本のキリスト教に所縁(ゆかり)のある地域に原爆が投下されたのです。ではキリスト教が悪で、神様がキリスト教を消そうとしたのか? そうではなくて、キリスト教所縁の広島や長崎であったからこそ原爆を受けるという事が起きたのです。そして、その66年後の今回もまた原発の爆発で日本人は放射能を浴び始めているのです。


1995年の1月17日に阪神淡路大震災が起きました。その3ヶ月後には、オウム事件が起きました。オウム事件も地震のようなものです。激震です。そして、その3ヶ月後に初めてのヨハネ・リーディング集『ハルマゲドンを超えて』が、本として発刊されました。このように悲喜交々(ひきこもごも)、表面的に見ると善悪が入り混じって錯綜しながら、一体何が本当で何が悪なのか迷ってしまい、どのように判断し対応してよいのか、いろいろな事が同時に起きてくるのが特徴です。しかし、次第に落ち着いて見ていると見分けられてきます。


カルマが現れ出ると試みになり、カルマが解けて、本当のものが次第に世の中のために良い働きをして行く。本当のものは地道で確かな足取りであるのが特徴的です。まずは、悪が現れ出て清算されます。そしてその少し後から、本当のものが頭角を現して、人々を育て導きます。95年にそれが起きました。


2011年の今の時期も同じように善悪がさまざまに起き始めているのです。数年前の新潟中越地震は10月23日に起きました。これも神様の日に忌まわしい地震が起きたわけです。このように人間界、地上界に純粋な神の愛の働きが起きる場合、人間には何が本当で何が問題なのか、見分けられないような起き方をする場合が多いということです。


表面的に見ると神様が悪いようにさえ、人間は見てしまうことがあるのです。逆に、悪で問題なものが素晴らしかったり、良いように見えることもあります。だから人は騙されたり、惑わされるのです。よほどしっかりして柔軟で謙虚でないと見間違います。霊的真実を洞察する知恵は、普通の人間の賢さや頭の良さとは違うのです。いつでも他を思いやり、自分を内省し弁(わきま)えていてこそ、本当の知恵が働いて見分けられるようになります。


2011年3月は、少し前から何度か周りに伝えられていた通り、ペンテコステの成就が起きる時であり、本当の始まりの時なのです。「そうであるにも関わらず」ではなく、「そうであるが故にこそ」3月に太平洋沖地震があったのです。神様が動かれ、浄化と育成の働きかけを全日本人に対していよいよ始められました。ありがたく、平安をもたらすはずの聖霊の天からの降臨が、神から背く汚れた人間に降りてきたときには、このような形に変化して襲ってきたのです。神の愛の鞭(むち)です。


黙示録にも「7つの怒りの鉢を天使が傾けると、次々に禍が起きた」と書かれています。禍をもたらしたのは悪魔ではなく天使なのです。人間が自分を是(ぜ)としている限りは、相手が悪く見えます。自分を自覚し弁えると、やってくる元が善であることがわかり、自分のことを否定でき、懺悔し、心も行動も改め、そこで救われていくのです。そのことが果たして日本人に出来るかどうかが、今試されているところです。


【質問2】今回、犠牲になることを引き受けてくださったアイヌ地域の神々様を始め、命を捧げてくださったすべての存在に、心よりの感謝を申し上げます。ご供養の一助となるためにも、これからの復興に向け、残された私たちの心構えや留意点について、お導きください。


【ソース】西日本は良くも悪くもエネルギーが強く盛んなので、つけ入る隙がありません。一方、東日本から北日本は特にアイヌの素地が強く、取り分け東北は縄文文化がそのまま保持されているので、純朴でその分隙があり、弱いのです。このように単に「北日本にはカルマが深いので、ひどい目に遭った」という単純な理由によるものではなく、西日本はともかくエネルギーが活発に動いて盛んなので地震を寄せつけませんでした。


一方の東北は、アイヌの純朴さがあったので隙があったと言えばあったし、受け入れられるだけの純粋さや素直さがあったとも言えるのです。また自らを犠牲に捧げられるものが、キリストのようにあったとも言えます。カルマ的には、この数千年の日本の歴史の中で津波で亡くなった方が何度か周期的にあった土地でした。


亡くなった方々はあの世に帰れて、この世の学びや対処から解放されます。世間的に見ると亡くなるということは、最大の悲しみです。しかし霊的に見ると「免(まぬが)れた、解放された」ということなのです。残された者たちほど大変です。そこから苦難と悲しみと苦労が始まるからです。亡くなった方たちは解放され、帰って行けました。もちろん引き続き苦しむ御霊(みたま)たちもいますが、基本的には地上から解放されたのです。


一方、生き残った者たちはむしろそこからが大変です。とにかく生き続けなければなりません。生きるということは学んだり、対処したり、責任を取っていくことが伴います。それが残された者たち、特に被災民、被災者の人たちというより、関東より西の地域の人たちに過酷なレッスンと対処が求められていくことになるのです。


東北の人たちは、淡白で純朴で生に対する執着も少ないので、自ずと日本のその辺りに地震と津波が引き起こされました。もちろん科学的に見れば、地盤のプレートのズレがちょうど東北の近海沖の所に南北に走っていたから、そこに地震が起きたということです。その説明に間違いはありません。しかし霊的な説明としては、今話されたことがあったのです。そのため今後の対処や学びは残された者たち、しかも被災者の人たちというより、安全で生活している関東から西の地域の日本人たちのほうにあります。その証拠に恐れが始まり、困り始めています。神様から試され始めているのです。


福島にある原子力発電所が爆発し、放射能の漏れが始まったのは、もっと日本人が自制し足ることを知り、少ないところで満足し、感謝し、食べ物やさまざまな物を大切にする生活が出来ること。そして霊的なことや神様のことに目を向け、もっと思いやりを持って、人々や自然に接して生きねばならないことを教えています。実際、原子力発電の爆発によって、節電が否が応でも求められ出しているのです。


これまで食べ物にしてもエネルギーにしても、粗末にし感謝しませんでした。そのようなことはこれから通用しなくなるということです。スーパーなどに行っても、お金があっても品物自体が並ばない時が来る。このようなことは、以前からリーディングや講話で何度も言われ続けて来たことです。それがここに来て現実となってきているのです。


節電やエネルギーを使うことの抑制も言われ続けていましたが、日本人がそれをしないので、渋々させられるような事態になったのです。それだけでなく霊的なことや魂、神様に目覚めるほうに向かって行くことが重要です。単に自制して、自然と共存するというところで止(とど)まらず、もっと命の根源に目を向けて感謝し、そして自然や他の人を敬って、助け合って生きることが求められているのです。そのためのきっかけが試練という形で与えられました。


【質問3】今回の地震で、福島の原子力発電所が非常に危険な状態となりました。このことに対する天のご意図と、私たちが学ぶべきこと、取るべき方向と取り組み方についてお教えください。


【ソース】エネルギーを生み出す媒体や手段として原子力発電は最も効果的であり、現在の人間にとって容易にできやすい方法でした。そのため原子力の危険性や副作用的なものがあること、その問題を知りつつも、つい人間は原子力に頼り、過信し、他の自然エネルギーを開発したり、あるいはエネルギーを使う分量を抑制したりということはせずに、そのまま来てしまっていました。それは神の意に副(そ)わないことでした。そのため強制的に中断されたのです。


困ることが起きて初めて、人間はやめます。困ったことが起きた場合、法則として「行き過ぎに対する歯止めと、軌道修正が迫られている」ということが必ずあるのです。これは個人レベルでも、大きな単位で起きる場合でも同じことです。本人が気づいてやめれば、そのような目に遭わなくて済むのですが、気づかなかったり気づいてもやめないと、事が起きて渋々やめざるを得なくなり、方向転換をしなければならない羽目になるのです。


日本人はガツンとやられたということです。それが神の愛に基づく働きかけです。今の日本人に必要な訓育なのです。今後は原子力によるエネルギーの供給が見直されて行かねばなりません。そして電気を始め、エネルギーをもっと大切にし、人間は自制して行かねばなりません。それ以上に人間は魂に目覚め、愛を持って生きるようにならねばなりません。首都圏の人たちが自分たちのために福島に原発を設置したので、放射能汚染が東京にまで及び、困らせられているのです。
                       リーディングを終了します。
(ありがとうございました)〈了〉